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近代国家に関するebmgsd1235のブックマーク (4)

  • 国債は通貨より重要な政府債務である : 池田信夫 blog

    2016年12月18日12:15 カテゴリ経済 国債は通貨より重要な政府債務である 政府の源的な収入源は徴税しかないと思われているが、政府は国債で資金を調達できるので、その償還を無期延期できるなら国債は通貨と同じである。その残高は統合政府で考えるとマネタリーベースよりはるかに多く、金利をコントロールできる点でも通貨より重要である。 つまり近代国家は、税で収入を得る租税国家から、国債に依存する債務国家に変わったのだ。シムズのFTPLは正統派の理論にもとづいて、債務国家の財政管理を考えるものだ。 債務国家は悪いことではない。Cochraneのいうように国債は政府の発行する株式のようなもので、短期的な景気変動に対するバッファとしては税よりすぐれている。株式は返済する必要がないのと同じく、国債も償還を先送りできる。問題は、政府の「時価総額」がどのように算定されるかだ。政府の「時価総額」を計算する

    国債は通貨より重要な政府債務である : 池田信夫 blog
    ebmgsd1235
    ebmgsd1235 2016/12/27
    統合政府部門、日銀券から国債、国債に依存する債務国家、政府の時価総額。信用、中央銀行の存在意義、最後の貸し手機能は?「その償還を無期延期できるなら国債も収入源」、株式と同様に紙くずとなる、日本円の暴落
  • 明治政府のフーコー的臣民観 | Kousyoublog

    ちょっと引用中心のメモ。 『明治の指導者たちは、人々を単なる支配の対象(object)ではなく、知識をもった自己規律的・自律的な主体(subject)として、つまり、フーコーのいう二重の意味での主体――「支配と依存」に服従させられた臣民(subject)であると同時に、「良識と自意識」によって自身のアイデンティティをもった存在としての主体(subject)――へとつくりかえてゆこうとしていたといえるのである。 この支配に関する新しい考え方こそが、高度に規律化された国民共同体と、統合的・全体包括的な国民文化へと一般民衆をとりこんでゆくことをねらった様々な政策を生み出したのであった。国家当局者の手によって正しい信仰のありかたが教示されるいっぽうで、地方の神社を破壊・統制したり、シャーマンや祈祷師やいわゆる淫祠などを迷信のたぐいとして規制し、民族宗教を攻撃するといった、啓蒙という名の一種の文化

    明治政府のフーコー的臣民観 | Kousyoublog
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    ebmgsd1235 2014/06/03
    フーコーの二重の意味での主体、「支配と依存」に服従させられた臣民(subject)であると同時に「良識と自意識」によって自身のアイデンティティをもった存在としての主体(subject)。教育や啓蒙、民族の民度は計れる?
  • 伊藤博文の「皇太子は操り人形」発言と明治国家の儀礼の創造 | Kousyoublog

    先日の記事「近代日、海水浴の誕生」で明治時代に日の医療制度の確立に多大な影響を与えたドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツについて紹介したが、そのベルツの日記に、彼が侍医を務めた皇太子嘉仁(後の大正天皇)の結婚に関するエピソードとして、伊藤博文の発言が紹介されている。明治三十三(1900)年五月九日の日記より。皇太子の結婚は翌日五月十日のこと。 『一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。――こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実

    伊藤博文の「皇太子は操り人形」発言と明治国家の儀礼の創造 | Kousyoublog
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    ebmgsd1235 2014/05/10
    日本の旧思想って支配者層の政治ゲームにおけるルールであって明治以降の天皇制は全体戦争のために必要な装置として設計され明治の元勲があえてそう見做していたのにそれをマジに内面化したのが昭和のエリートや国民
  • 靖国神社に「政教分離」はありえない : 池田信夫 blog

    2013年12月27日12:38 カテゴリ法/政治 靖国神社に「政教分離」はありえない 安倍首相の靖国参拝を批判する人は口をそろえて「憲法の政教分離の原則に反する」というが、靖国神社は来の意味での宗教施設ではない。きのうの記事でも書いたように、国家神道は天皇制を神聖化するために明治政府の偽造した政治的イデオロギーで、およそ宗教といえるようなものではないので、安倍氏は特定の宗教を支持したわけではない。 宗教は国家権力を支える精神的権威だから、ユダヤ教でもイスラム教でも宗教的な律法が国家の法律であり、中国でも儒教が皇帝の正統性を支える国教だった。特に中世ヨーロッパでは、皇帝の権力は精神的権威に依存していたので、教皇との長い叙任権闘争の後、国家が教会を支配下に置くようになった。 しかし近代の市民革命のほとんどは(アメリカ独立革命を除いて)カトリック教会への反逆に始まった。彼らは国家と教会の癒着

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