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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/nanari (6)

  • 対談 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 - 七里の鼻の小皺

    2007年11月某日、渋谷のアミューズCQNで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観た。すこし離れた席で、同じ映画を見ていた長岡(id:c_a_nagaoka)と出口付近で合流、顔を見合わせ、互いにうんと頷く(長岡は、このブログを長く読んでくださっている方にはおなじみかもしれないが、ぼくが10年ほど前から日のアニメについて、とりわけ「エヴァ」について、延々と対話をつづけている人物である。彼の更新する「灰かぶり姫の灰皿」(http://d.hatena.ne.jp/c_a_nagaoka/)は、最高度の言説を扱っているアニメ批評サイトであり、現在も日アニメをめぐる議論の水準を更新しつづけている)。「ともかく、座れる場所へ」とだけ言うと、あとは二人とも黙って渋谷の坂のひとつを登っていった。渋谷ではよく使っているSUZU cafeに入り、30分ほどそれぞれメモをとる。頃合いをみて、劇場版パンフ

    eborat
    eborat 2008/01/05
    エヴァという映画を映画として批評。なんかhttp://blog.livedoor.jp/hitoshione/archives/50563880.htmlに通じるものがある。
  • 七里の鼻の小皺 - 2007-10-08 - 『ドラゴンクエスト3』RTAについて

    ゲームをめぐる言説の水準は、ますます高くなっているようです。ゲーム学会(http://www.dmic.org/game/)や日デジタルゲーム学会(http://www.digrajapan.org/)、それにいくつかの大学の研究室が、ゲーム研究の中核として浮び上がってきています。ネット上に読まれるゲーム批評の議論も、厚みをましてきました。 そのようなわけで、素人がうっかりと大きなことを言うべき状況ではないのかもしれません。もちろんひとなみに、思い入れのあるゲームはありますし、とくにRPGについては、いろいろと論じてみたいこともあるのですが(このブログは、『MOTHER』を再プレイしているという記事から始まったのでした)、今回はあえて作品評に飛びこむのではなく、ゲームプレイの一状況について、ファンとしての感想を書いてみました。 ■『ドラゴンクエスト3』RTAについて 最近もっとも心震

  • 七里の鼻の小皺 - アイドルについて語るということ

    最近、ハロプロの周辺で起こったいくつかの出来事について、ぼくが何も書かずにいるのを、奇妙に訝っているひとがいるかもしれない(あるいは、こいつそんなにアイドル好きだったっけと訝るひともいるかもしれない。なんでも、好きだよ)。実際、この数ヶ月ほどの間に起こった出来事を、過少に申告することはできないだろう。「結婚」という問題を軽く扱うなら、アイドル恋愛も、不可能になる。アイドル結婚は、かつて物語の出口であった。1980年、山口百恵がステージに置いていったマイクは、曲がりなりにも、ピリオドの石として機能しえたのだ。物語は、かつて閉じる地点をもっていた(キャンディーズが、1978年に普通の女の子に戻りえたのは、「普通ではない」閉じた物語の世界として、アイドルという言説が存在していたからである)。現在のわれわれの問題は、辻希美の結婚が、はっきりとした出口として機能しないということにある。あの記者会

  • 2007-03-26 - 七里の鼻の小皺

    昨日、とても軽やかな気分で、プロフィール欄に「加護ちゃん、なんとかふんばれ」と書いて出掛けた。夜、家に帰ってみると、加護ちゃんが解雇されていた。正直、言葉がないし、文章を書く心理状態ではない。とくに加護ちゃんの専門的なファンであったことはないが、しかし、なんと冷たい幕引きだろう。みな、当たり前のことなのだと言う。加護亜依「ファンサイト」のいくつかは、「手を引く」ことに決めたらしい。なかには、ハロプロ全体に「被害」が及ぶからもう顔を出すなと、彼女を罵倒するサイトさえあった。被害者面ってわけだ。ようするに、彼らはアイドルや愛や芸術とは、はじめから無縁の生まれだったのだろう。だが、そうなのだとしても......ぼくはこんな気持ちでは存在しつづけられない。世界は、そこまで愛を楽観視していたのか? 加護亜依が失敗を繰り返さないなどというのは、「誰々はトイレに行かない」式の皮算用に違いない(その皮算用

    eborat
    eborat 2007/04/02
    いつもながら感動する文章。
  • 2005-12-05 - 七里の鼻の小皺

    2chやブログに根をおろした共同体が、あるいはそこに巣う言葉のコマーシャリズムが、まともに勉強もしないことを自己正当化したがる神経衰弱者どもに安らぎの場所を与え、ネオ・ナショナリズムという名の非人間的な機械の温床となっていることは、すでに明らかだ。以下のブログに集う人々は、この機械に取り込まれることで自分が感じた安心を、個人個人の意見をもつことを免除される心の容易さを、隠そうとさえしていない。http://d.hatena.ne.jp/torix/20051205どこまで疲労すれば、人間の精神がこのような遊技への参加を自分に許すのか、いっそ知りたくもない。彼らは、冗談によって責任を回避しつづけることができるとぼんやりと思っているのだが、甘い考えである。この集団はそこで、自分たちの欲望に合うように整形された、あらかじめ定められた枠組みに、マスコミの発する特定の国家をめぐる言説を機械的に当て

    eborat
    eborat 2007/02/26
    何を信じるか。
  • 七里の鼻の小皺 お笑いについて

    時間が過ぎていく。昨年は、ちいさなちいさな学位を、ひとつ手にした。なんだかんだと言いながらぼくも、「澄ませば座れた椅子」(イルリメ)の座り方のひとつを、覚えようとしているのだろうか。しかし、少なくとも内面的には、そう単純ではなかった。大学や社会と、自分との間の齟齬に対して感じてきた愛憎は、まったくそういう風ではなかったのだ。どの程度に「うまくやれるか」という関心と同じくらいには、この齟齬から汲み取れるはずの何かを、ぼくは愛しているのだと思う。 いつもよりもさらにオセンチに始まった七里の鼻の小皺、今回はM-1の感想から派生した、ひとつの青春論です。 ■笑いの忌明けのために 2006年M-1グランプリ決勝での、POISON GIRL BANDの変調(ただの緊張でもあるのだろうけれど、それにしても、彼らにしては不用意に言葉が多すぎた)に大きなショックを受けて、しばらくひどく深刻な気持ちにつか

    eborat
    eborat 2007/01/12
    笑いへの、そして芸人への愛を感じる文章。すばらしい。
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