いま話題のツイートまとめが読めるTwitterまとめに特化したまとめサイト。人気のツイートやTwitterトレンド、写真やマンガといった話題の画像から、さまざまなニュースの反応まで、みんなであつめる国内最大級のメディアプラットフォームです。
参考リンク(1):『ダークナイト ライジング』の批評でロッテン・トマトが炎上! - ニュースウォーカー Rotten Tomatoesの編集員は、「マーシャルは、同サイトで個人的な意見として映画の好き嫌いを書く権利がありますし、それについて読者の皆さんは、たとえ映画を見ていなくても、反対意見を述べる権利があります。一方で、我々には、不適切だと判断した書き込みは消去する権利があります。ここは、映画を楽しむサイトでありかつビジネスなので、中傷や誹謗、脅しのコメントがあればすぐさま削除します。言論の自由について議論する場所ではありません。世の中には、もっと怒りをぶつけるべきこと、戦争や犯罪、貧困などがたくさんあります。映画のレビューにぶつけないでください」とコメントし、数日間は書き込みができないようにしたことを明らかにした。 参考リンク(2):映画『サマーウォーズ』感想(琥珀色の戯言) 一昨日、
最近のツイッターの流れを見ていて、少し感じることがあったので、少し長くなるけど書きます。通し番号をつけますので順番に読んでください。 ※ツイッターに書くつもりでしたが、長くなったのでブログに書きました。全てのパラグラフが140文字以内なのは、そのためです。 第一部:総論:ツイッターでの感情的な議論が不毛な理由 1)よくツイッターで議論をしている人がいるが、それで相手の考えを変えることは無理だと悟るべきだ。朝まで生テレビなんかを観ていれば分かるけど、反論されれば相手は反感を示して余計に意地になるだけ。声が大きい人が勝者。最後はブロックしあって終了。不毛だ。 2)ツイッター上で主義主張の異なる相手を黙らせたり、考えを変えさせたりするのは無理と気付くべき。そのテーマに詳しくない人を洗脳するくらいは出来ても、事実に基づく説得でないなら、その洗脳はすぐ覚める。唯一賢明なのは、誠心誠意事実を話し、理解
もちろん「私は」なれるよ。だが「あなた」には無理だね AさんとBさんは仲がいい。だがあることで意見が食い違い、激しい議論になった。でもふたりは議論とケンカは区別している。だから議論が終われば、笑いながらいっしょに食事へ行ける――。 そんなふたりの関係ってステキだよね、ってとこまでが前回のお話。で、今回の私の、まさに「議論」の相手から以下のお返事がきた。 じゃあ、おれと松岡美樹おじさんが、その「AさんとBさんの関係」になれるとお思いか? そこ考えてみよう、な? 『ぜんぜん知らないおじさんオフィシャルブログ Powered by 聞いたことない会社』 もちろん私はなれるよ。 現に今まで何人もの議論の相手とそうしてきている。 私は人の「意見」と、その人の「人格」は完全に区別している。だから人格は別にして、「意見だけを戦わせる」ということが客観的にできる。別に相手に個人的な恨みがあるわけ
1. ソースのある主張は、そもそも主張ではない : メカAG 俺は主張やそれに関する議論というのものは、ソースのないものが本物だとずっと思っている。「ソースは俺」としか言えないものこそが、まさに俺の主張であり、自分が主張する価値のある主張だ。ソースにこだわる議論というのは、主張ではなく、単に知識の量を競っているだけなのだ。 「主張」というから首を傾げるので、「価値観」や「考え方」といってくれたらすんなり受け入れられる。あるいは、単にカッコ書きにしてくれるだけでもいい。 以下、関係あるような、ないような話。 2. たいていの主張は、何らかの世界認識と価値判断から成り立っている。 対立する意見を押しのけて自分の意見を通したい場合の戦術として、自説のよさを訴える方法と、対立する意見を潰す方法がある。合わせ技で、自説が対立説より優れていることを示す、というものもある。 以下、対立説を潰すケースにつ
少し前に議論の心得みたいな記事を見かけた。 あんなもんが広がるのは胸クソ悪いので適当にボカして要約すると、「相手が○○しだしたら時間の無駄なので議論を終わらせろ」的な内容だった。 いやもう、マジでびっくりしたね。なんで「自分は正しく相手が間違ってる」が当然の前提みたいになってんだよ。 たとえば「○○」に「論点のすり替え」を代入してみる。 なるほど、内容的には必ずしも間違ってると言えないかもしれない。 でも「すり替えかどうか」を判断するのは誰だ?お前自身だろ? それは本当にすり替えなのか?ひょっとしたらお前が相手の主張を理解できてないだけかもしれない。 議論を実りあるものにしたいなら、そういう可能性を考慮する内省的な態度と相手への敬意こそ重要なんだよ。 要するに、議論の際に気をつけるべきことは以下の3つだ。基本的にはこれさえできればいいし、逆にこれができない奴は議論に向いてない。 自分の主張
「twitterは議論が出来ない!」とシステムのせいにして議論が出来ない奴が叫ぶアレについては散々見るたびにぶっ潰してきた
自分の書いた物に対しての異論・反論が、自分のブログのコメント欄ではなく、別の場所でなされた時に、よく見かけるのが、「文句があるなら、ここに書けよ」と言う類の物です。 はてなブックマークの流行もあってか、相手のブログの記事に対する苦情・異論・反論・批判・悪口・罵声etc.etc.(以下、便宜上、これらをまとめて「ネガティブコメント」とします。区別する必要がある場合は、それぞれ書き分けます)が、対象になっている人のサイトスペースではなく、他の場所で行われる事が多くなりました。 相手が知りえない場所でのネガティブコメントは、陰口に近いものと悪意を感じるので、それが正当な批判であっても、好ましい物ではないです。 だからネガティブコメントは、相手に分かる場所に書きましょう、というようなことを、僕は何度か書いてきたわけですが、じゃあ「相手に分かる場所」ってどこ? ネガティブコメントが発せられるいくつか
ほんとうに議論がしたいのであれば、 真顔の議論を経てマジメな結果を出したい案件ならば。 そういう意味では常々ご提案申し上げている通りゲーテッド・コミュニティが最強ですが、たとえ世間に開かれていても実際には"通りすがり"に見つかることのない、そこら凡百の掲示板でも。 議論するならTwitterより2ちゃんねるのほうが向いている - A Successful Failure を読んで。 上記では「場のつくり」が議論の成り立ちやすさに影響する、という論理で話をされています。 読んでみれば確かになるほどなぁ、と思うところはあるのですが、それよりも私が思うのは。 人の集まりやすさが議論の邪魔をするのではないかなぁ、と。 ……まぁ、いつもの繰り言ですけれども。 虎は死して皮を留め、夢は死して大喜利を残す。(2010.06) 何度か書きましたけれども、(真顔の)議論を続けよう、と思うなら、メンバーの意識
日本で「ディベート」がどうも勘違いされている原因として、次のふたつがあるんじゃないかと思っております。 オウム真理教と上祐史浩氏 議論テクニックとしての狭義の「ディベート」という言葉が注目を浴びた最初のきっかけに、1995年当時、オウム真理教の広報部長として活動していた上祐史浩氏の存在があげられます。 「ああ言えば上祐」という言葉があったくらい、あらゆる批判に対し雄弁に反論する彼の姿がテレビ上などで繰り返し放映されていた。その彼のバックボーンに、学生時代のディベートにおける活動があり、その面が過剰にクローズアップされた結果、上祐氏が雄弁であることをディベートに紐付けられた。 「朝まで生テレビ」と田原総一朗氏 もうひとつが現在も放映されている「朝まで生テレビ」と、その代名詞的存在とも言える田原総一朗氏。 テレビ番組の中で、最もメジャーな討論番組ということもあり、「ディベート=討論・議論」とい
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く