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Togetter - 「東浩紀とカンニング問題」 とある学生が試験でカンニングしたことをツイッターでばらしてしまい、それが担当教員に見つかってリツイート (RT) され……という話。これに対し、多数のフォロワーを有する担当教員が RT しなければ学生はここまで叩かれなかったという意見がある。 東浩紀さんとカンニングとtwitterの「不当な量刑」 - 琥珀色の戯言 東浩紀氏×カンニング宣言 - 興味ひとくち 教員の RT を見たたくさんの人に叩かれた学生に同情したくなるのはわからないでもない。しかし、なぜ RT した教員やそれを見て学生を叩いた人が逆に非難されなければならないのだろう。 大体、カンニングをしたことへの報いとカンニングをしたことをネットで公言したことへの報いの区別ができていない。学生はただカンニングをしかたら叩かれたのではない。それをネットで公言したから多くの人に叩かれたのだ
早大生? Twitterでカンニング告白、教授の東浩紀氏が発見 - ITmedia News Togetter - 「東浩紀とカンニング問題」 渦中の対象になっている学生は、うちの娘や息子となんぼも年が変わらん。この学生が自分の子だったら、自分はどうするだろうと。そのことをずっと考えてる。 で、アンタはどう思うの? 何を考えるの? そしてその中で「気づいて欲しい」こととか「拾って欲しい」こととか。本人がここからどう成長していけるかとか。 恥ずかしいのは過ちを犯すことじゃない。過ちを過ちのまま放置し、そこから成長できないことだ。 ネットだのtwitterだのということがどうのではなく、自分の言動行動というものは、常に自分に責任が返る。そういうことだと思うし、その時にどういう「自分」があるかということ。そこに人間の真価というものはあるとわたしは思う。 あとは、一年余計にかかることになるかもしれ
参考リンク:Togetter - 「東浩紀とカンニング問題」 ここでの東浩紀さんと「カンニングをtwitterで無防備に告白した(しかも、教授の名前入りで!)学生」のやりとりを読みながら、僕は考えていたのです。 ああ、twitterって、ネットって怖いなあ、と。 僕が通っていた大学で、以前、集団カンニングが発覚して大騒動になったことがありました。 僕の後輩もその中のひとりに入っており、なんとか退学は免れたものの、「留年+その(カンニングをやった)年の取得単位ゼロ」という処分が下されました。 彼女はいわゆる「天然」な人で、ギラギラと「なんとかして単位をとってやる!」という感じではなく、「遊び呆けているうちに試験勉強が間に合わなくなり、まとまった人数の友達と『じゃあ、カンニングしちゃおうか!』という話になり、映画『ザ・カンニング』まがいの秘密兵器を試験会場に持ち込んだ」らしいのです。 「罪の意
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