昔、廣松渉のゼミでアルチュセールが話題になると、彼はよく「あんないい加減な読み方を『徴候的』などといって正当化できるなら、文献考証はいらない」と批判していた。アルチュセールのいう「認識論的切断」は、廣松の「疎外論から物象化論へ」という図式と似ていただけに、その読解のずさんさに腹が立ったのだろう。 事実、アルチュセールは晩年(といっても1980年に発狂する直前という意味だが)に書いた「限界の中のマルクス」という未発表の草稿では、初期の議論を撤回する。マルクスの歴史観は、疎外論どころかヘーゲルからも脱却できていない観念論であり、進歩主義的な目的論だと批判し、「自由の国」という透明な共同体としての共産主義はヘーゲルの絶対精神の焼き直しだ――という全面否定に近い評価をマルクスに下すのである。 彼は『資本論』の価値論も(英米の経済学者が指摘するように)論理的な矛盾をはらんでいるとし、その原因をマ