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ブックマーク / fujipon.hatenablog.com (8)

  • 「会社をやめて、ブログで食べていこう」と思っている若い人たちへ - いつか電池がきれるまで

    ネットを回遊していると、ときどき、「会社をやめて、これからはブログでべていこうと思います」と宣言する若者たちを目にします。 個人的な利害関係があるわけじゃないので、「ああ、頑張れよ」と思うくらいなのですが、彼らに対して、ネット上では逆風が吹き荒れることが多いんですよね。 僕は彼らに「危うさ」を感じる一方で、そういうのが新しい生き方のひとつであり、それでべていけるという選択肢が世の中にあるほうが、生きやすいのではないか、とも思っています。 若いうちであれば、何かやってみてうまくいけば万々歳だし、失敗しても、「それもまた経験のひとつ」として今後に活かせるところもあり、ブラック企業、あるいは「どうしても自分に合わない場所」にしがみついているよりはマシなんじゃなかろうか。 でもなあ、そうやって「理解のある大人」であろうとしながらも、僕のなかには、なんだかすごくモヤモヤとした感触が残っていたので

    「会社をやめて、ブログで食べていこう」と思っている若い人たちへ - いつか電池がきれるまで
  • 出川哲朗さんが語り尽くせなかった「リアクション芸とコンプライアンス」 - いつか電池がきれるまで

    今年もほとんど観ることができなかったのですが、長男を連れて出かける道中、車の中で音だけ聴いていたんですよ、『FNS27時間テレビ』。 その時間は、「お笑い芸人、気のプレゼン大会」というのをやっていて、出川哲朗さんが登場してきました。 そこで、出川さんが「リアクション芸人が語るコンプライアンス問題の質」というタイトルで、なんだか真剣に話を始めたのです。 以下、出川さんの話(録画したものから、大意を活かす形で、大まかに書き起こしています)。 ぼく、この件について、いつか話をしたいと思っていたので、この機会を与えてくれたフジテレビに、ありがとうございます。今回わたしが話すのは「コンプライアンス問題の核心」です。 「コンプライアンスがあるから、最近面白い番組ができないですよね〜出川さん。昔はコンプライアンスがなかったから、無茶ができてよかったですねえ」なんて声を聞きます。 コンプライアンスはわ

    出川哲朗さんが語り尽くせなかった「リアクション芸とコンプライアンス」 - いつか電池がきれるまで
    fake_fake
    fake_fake 2015/07/29
    食べ物に関しては「このあとスタッフが〜」と見るようになってから、意識し始めたような気がする。それまでは単純に笑いで済ませてた。本当に最近はテレビの企画が目に見えて変わってきていてつまらない気がする。
  • 映画、演劇、テレビゲーム、ネット上の文章は、どのくらいの長さが「適切」なのか? - いつか電池がきれるまで

    参考リンク(1):観客動員数を減らさないためにスターシステムを採用しない - ウェブ1丁目図書館 このエントリに出てくる、劇団キャラメルボックスの「ハーフタイムシアター」の話を読んで、考えさせられました。 僕のなかの「常識」としては「映画や舞台は、2時間くらいが基線で、映画の場合は、90〜180分くらいだな」と。舞台も3時間を超えるものはそうそうないし、90分未満というのも、経験がありません。 なんとなく、そのくらいないと、ボリュームが足りないと感じそうな気がします。 (ただし、子ども向けには、60分とか80分の映画もあります。『きかんしゃトーマス』の映画が70分ちょっとしかなくて、「短いなあ」と思っていたのですが、ちょうど60分を過ぎたくらいの時点で、当時3歳の息子が「まだ終わらないの?」とゴソゴソしはじめたので、やっぱり、ちゃんと上映時間も考えられているのだなあ、と)。 最近どうも、

    映画、演劇、テレビゲーム、ネット上の文章は、どのくらいの長さが「適切」なのか? - いつか電池がきれるまで
  • ブログで、人生が(たぶん)変わった話 - いつか電池がきれるまで

    ブログを書き始めて、人生変わったこと。 僕は、生きていて感じる「ちょっとした疑問」を書くのが好きです。 それで、書いているうちに「平凡な人生の、ちょっとした起伏を見つけるのが楽しくなってきた」すなわち、「平凡な人生が、けっこう面白くなってきた」「退屈を感じることが少なくなった」ような気がします。 たとえば、こんな話を書きました。 「すき家」と「吉野家」の生卵の話 - いつか電池がきれるまで まあ、こういうのって、どうでも良い話、だと思うんですよ、大部分の人にとっては。 僕自身にとっても、「人生を左右するような話」じゃありません。 でも、ブログを書き続けている人間、とくに、僕みたいに「日頃の出来事を拾う」ような文章を書いている人間にとっては、こういう「日常生活のちょっとした気付きとかヒラメキ」で、すごく嬉しくなるのです。 大概において「日常」というのは、パターン化されていて、面白くないもので

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    fake_fake
    fake_fake 2014/01/05
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  • 人生は、必ず「やりかけ」で終わってしまうものだから。 - いつか電池がきれるまで

    人生というのは、誰にとっても、いつ、どんなタイミングで終わったとしても「やりかけ」になってしまうものだ。 最近、一冊ののことを、よく思いだす。 僕は、一度も読んだことがない。 というか、あれこれ思いだしてしまうのが怖くて、読むことができない。 もう、20年近く前の話だ。 当時、僕の母親は重い病で入院していた。 治る可能性が限りなく低く、病勢はどんどん進行していった。 家族の一員としての立場と、医療の世界にいる人間としての客観的な状況認識のあいだで、なんだかとてもいたたまれない日々を過ごしていたような気がする。 忘れてしまったのか、忘れてしまいたいのか、詳細は、もうあまり覚えていないのだけれども。 病床で、母親は僕に、ひとつの頼みごとをしてきた。 「このあいだ、テレビで紹介されていたを読みたい。『いしのなんとか』というような題名だったと思うのだけれども……それが面白そうだったから」 母は

    人生は、必ず「やりかけ」で終わってしまうものだから。 - いつか電池がきれるまで
  • ブログは「弱虫な表現者のためのもの」だった。 - いつか電池がきれるまで

    参考リンク(1):打たれ弱い奴はブログとか辞めたほうがいいんじゃないですか(山 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース このエントリに関しては、山さん忙しそうなのに、「はてなブログ」というコップの中の嵐までウォッチしているのか……と感動はしましたが、書かれていることは当たり前のことなんですよね。 ある種、ブログを続けるというか、第三者へ向けて意見を書き続ける、表現をし続けるというのは、常に批判を受けることを前提とするものであって、それが嫌で、直面したので「心折れました」とか言っているのはヘタレ以外の何者でもないと思いますね。 まあ、作用・反作用の法則、みたいなものではあるのでしょう。 打てば、響く。 その響いてきたものが、自分の求めていたものかどうかはさておき。 そもそも、ブログに限らず、「自分が表現したもの」に対する思い入れがあるのは当たり前なのだけれども、その思い入れは、赤の他

    ブログは「弱虫な表現者のためのもの」だった。 - いつか電池がきれるまで
  • 「ブログの死に方」が、問われる時代 - いつか電池がきれるまで

    iPhoneの『MEGU』という「たまごっち」のスマホ版みたいなアプリが、10月2日付けで、「2013年11月28日でサービス終了」になることを、ログインしてはじめて知った。 このアプリ、率直なところ、何が面白いのかよくわからないんだけれども「お世話しないと死ぬ」という強迫観念から、一日一度ログインして、掃除、お風呂、事などを行っていたので、ある意味「解放」されるのも事実だ。 やっぱり『GREE』は経営が厳しいんだなあ、とか、このアプリ、課金しなくても遊べてしまうから、きっと儲からなかったんだろうなあ、とかあれこれ考えたんですけどね。 しかし、デジタルペットとはいえ、時間が来ると消えてしまうというのは寂しい。 ああ、なんだか『ハクション大魔王』の最終回みたいだ……(あれは泣ける、子ども時代に脱水になるくらい泣いた) うーむ、オンラインゲームというのは、遅かれ早かれ、こういう「終わり」が来

    「ブログの死に方」が、問われる時代 - いつか電池がきれるまで
  • mixiの衰退の原因は、サービスの内容の問題というより、「寿命がきた」だけ - いつか電池がきれるまで

    「mixiはなぜ、衰退したのか?」が話題になっているようだけれども、比較的初期からmixiを使っている僕からすると、衰退したというより、適正化したというほうが的確なんじゃないかと思う。 『美味しんぼ』の「サラダ勝負」で、海原雄山が「人間は質的に生野菜が好きじゃない」というようなことを言っていたけれども、mixiの最盛期っていうのは、それこそ「生野菜嫌いの人でも、健康のためには生野菜をべなければならない」というような強迫観念に駆られ、みんなmixiに登録していたように思われるのだ。 これはfacebookでもそうなのだけれども、一部のヘビーユーザーがどんどん「見てほしい私」を投稿し、それに「イイネ!」とつけないと居心地が悪くなる、という雰囲気は、多くの「そんなに他人と繋がることが好きじゃなく、価値も見いだせない人」にとっては、「めんどくさい世界」でしかなかったはずだ。 「足あと機能」がな

    mixiの衰退の原因は、サービスの内容の問題というより、「寿命がきた」だけ - いつか電池がきれるまで
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