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ニセ科学に関するfileoのブックマーク (2)

  • ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論

    ニセ科学批判批判に対して、ニセ科学批判者を一般化して論じるなという方がよくいるが、これはニセ科学批判にも色々なかたちがあるということを前提にしての反論である。 しかし、実際はどうだろうか? 確かに、多様なニセ科学批判が乱立している状況ならそうもいえるだろう。残念ながら現実は全く違っているのである。 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。 まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学

    ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論
  • 心に青雲

    《2》 前回、「テニスができる身体と認識」「飛行機の操縦ができる身体と認識」という言い方をしたが、これは言うまでもなく、人間を論じる場合は、必ず認識と実体の両面から捉えなければならないからである。それで「〜ができる身体と認識」と書いた。 それゆえ、基とは実体面だけではなく、認識面でも見ていかなければならず、それだからある習い事が好きになるような働きかけを基練習にしなければならない。好きになるとは、何をやっても楽しい運動のことではない。辛くともそれが喜びになるような指導が必要である。その人の情熱や志に火をつけるような指導で基を修得させなければなるまい。 さて、われわれが何か学習または習い事を始める場合、それは初めての経験になる。今までやったことがないことをやるのだ。 われわれが生をうけて最初に主体的にいわば「習い事」を始めるのは、座ることである。それまでの寝たままの状態から、自

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