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2006年12月21日のブックマーク (2件)

  • 深夜のシマネコBlog: 誠実な、あまりに誠実な

    ●労働市場改革:正社員待遇を非正規社員水準へ 八代氏示す 素晴らしい。 まぁ、俺が戦争を引き合いに出さなければいえなかったようなことを、学者先生というのはアッサリ言うことができて、不公平だとは思うけれども。 非正規雇用者を気で救おうと考えるならば、正規雇用者との格差の是正を行なわなければならず、そのためにもっとも必要なことは、双方の賃金格差をなくすことであって、この提案はまさにその原理原則に則った内容と言える。 「平等!」と叫べばそれが達成できると考えている連中には分からないのだろうが、平等には金という後ろ楯が絶対に必要なのだ。金のランクが平等になって初めて民族や性別や出身地というファクターを解決できる。そのためにできることは、まさに労働層の賃金格差の是正、それも、今すぐできることが明確な下方修正が必要だ。 なぜ上方修正でないのかといえば、上方修正のためには社会全体のパイを引き上げなけれ

    fjb1976
    fjb1976 2006/12/21
    その発想はなかったわ。『本来、ワークシェアリングとは、そういうことだったはずだ』
  • いじめっ子に「愛」はあるか - jun-jun1965の日記

    私は『恋愛の昭和史』以来、「愛」とかラヴとかいう言葉は、人類愛や博愛に限定して使われるべきで、男女の愛とか家族愛とか、排他的な感情には使うべきではなかった、この二つをごっちゃにした西洋人が間違っていた、と言い続けている。 これを「いじめっ子」に当てはめるとよく分かる。いじめっ子でも、母親を「愛」していたり、恋人を「愛」していたりするだろう。ヒトラーだってエヴァ・ブラウンを、毛沢東だって江青を「愛」していただろう。だが彼らには人類愛や博愛はなかった(ただし毛は「文藝講話」で、異なる階級間に「愛」はないと言っている。もっとも、同じ階級だから「愛」があるとも限らない)。 「なぜ自分の家族には愛情深い人なのに、他人には冷酷なのか」というような問題も、この二つの「愛」を混同しているところから起きる。自分の周囲の人間を慈しんだりかわいがったりするのは、そも「愛」と呼ぶべきではないのである。

    いじめっ子に「愛」はあるか - jun-jun1965の日記