日本の脚気史(にほんのかっけし)では、脚気の流行が国家的問題となった明治時代から、脚気死亡者数が1千人を下回った1950年代後半までの日本における脚気の歴史を中心に記述する。 脚気は主食を白米とし副食が貧素な食事によるビタミンB1欠乏が原因であったが、ビタミンを知らない時代には、普通の食事で病気になるとは想像もできなかった[1]。 日本で脚気がいつから発生していたのかは定かではないが、すでに『日本書紀』に同じ症状の病の記述がある[2]。 江戸時代、元禄年間には江戸で白米食が普及し一般の武士や町人にも脚気の流行が見られ、「江戸煩(エドワズラヒ)」と称された。享保年間には、大阪、京都でも流行し「腫病(シユビヤウ)」と呼ばれた。文化、文政には中国地方や九州にも広がった。天保以後は、全国の地方都市でも流行が見られた[3]。 明治になると、1870年(明治3年)から脚気が流行。脚気死亡者数は、統計が