1943年春、旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、日本国有鉄道大阪鉄道局の職員として採用され、大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。ここで当時の局長だった佐藤栄作(後の首相)と出会う[3]。 1945年1月に陸軍に召集。最終的に陸軍第155師団歩兵第452連隊に配属、高知県で終戦を迎える[4]。 青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登(後の首相)、浜田幸一らと活動を通じて知り合う[5]。 衆院議員・田中好の秘書を経て、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)として町政に携わった。町長時代には京都府町村会の会長や政府税制調査会の委員なども務めた[6]。その後、府政に進出し、京都府議会議員(3期)を務める。京都府議の12年間は野党議員として社会党及び共産党などを与党とする蜷川虎三革新府政と対峙した[7]。 7期28年間の革新府政の蜷川虎三知