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ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (30)

  • ミイラ取りの田中さん - 傘をひらいて、空を

    彼に対して田中さんという呼称を使用する人はいない。田中さんは複数いて、彼はもっとも新しく来た人だからだ。下の名前と同じ読みの人もすでにいる。そんなだから、座席表は「田中(浩)」、近しい同僚からの呼び名は「ミーさん」で落ち着いた。ミはミイラのミである。 田中さんは中途採用、今年度で三年目に入った。というのは表向きのことで、ほんとうは中途ではない。田中さんは採用時二十八歳で、学校を出たばかりだった。履歴書を読むと大学院博士課程満期退学、と書いてある。新卒じゃん、と私の上長は言い、そうですね、と私はこたえた。けれども、私たちの会社では新卒というのはどうやら二十代前半までで、だから田中さんは新卒扱いにしたくないらしいのだった。そんなのどこにも書いてないじゃん、と上長は言い、書いてないですねと私はこたえた。 採用チームは人事担当ならびに採用対象の所属する予定の部署で組む。私は採用チームで年齢がいちば

    ミイラ取りの田中さん - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2017/07/26
    “いつもなんとなし愉快そうであって、よく人を褒める。それだけのことだけれど、選んでつきあっているのでもない相手ばかりの会社という場所でそれだけのことができる人はあまりいない。”
  • あなたはこれを好きだった - 傘をひらいて、空を

    はい、これ、いっぱいもらったから、お裾分け。私がそう言うと彼女は小首をかしげ、それから、笑った。声を出して笑う彼女を久しぶりに見て私はうれしかったけれども、その笑いにはもちろん屈折が感じられた。 ハンドクリームは二目、と彼女は言う。ボディクリーム、フェイスソープ、リップバーム、バスオイル。たったの二ヶ月かそこらのあいだに、会社の人も親戚も友だちも、やたらとスキンケア用品をくれる。忘年会のゲームの景品であたったとか、夫の仕事の関係で、とか、年末年始にパリに行ったから、とか。ここのは肌に合うって言ってたからっていう人までいた。他人によくそこまで関心持てるなあって思う。私の肌ってそんなに荒れちゃってるのかしら。 彼女はそう言って両のてのひらを頬のやや下でひらひらと振る。結婚指輪はもともとつけないタイプだ。そのことにすこしほっとして、それから、荒れてはいない、と私はこたえる。お肌に問題はないよ。

    あなたはこれを好きだった - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2016/01/06
    “私たちは実はとても簡単に、自分の世話を放棄してしまう。自分にそれだけの価値がないと判断してしまう。たとえば誰かをなくして、それを自分のせいだと考えているときなんかに”
  • 弱者としてのレッスン - 傘をひらいて、空を

    爆発の音がする。グラスを手に空の光を振りかえって、華やかな戦争みたいだ、と彼女は言う。夜になったばかりの空が赤く光り、緑色がかり、うす青く陰る。部屋の灯りは落とされ、やや過密にそこにいる私たちはたしかに、逃げて隠れているようだった。私は少しだけ動揺して言う。その種の比喩を、私は臆病に避けているんだよね。不謹慎だ、みたいに叱られるから。ほんとうに爆撃を受けている人に申し訳ないと思わないのか、とか。「当事者の身にもなってみろ」と弾劾される事態を避けている。 片方の眉を上げて彼女は笑う。年に一度の大きい花火大会の晩で、彼女の一家が住むマンションのベランダからは、やや遠景にはなるけれども、それを見ることができる。けれどもベランダは幾人もが座れる広さではなく、外気は日が暮れても有害なまでの熱を有して、だから火花に飽いた者は順繰りにリビングに入って、よく働く空調が吐き出す空気と控えめな灯りのなか、水滴

    弱者としてのレッスン - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2015/09/10
    “あいつらはただ弱者として目をつけた誰かの抗議の権利を横からかすめとって、あるいはそれを偽装して、別の他人に言うことを聞かせたいだけ”
  • 他人の偽善の遇しかた - 傘をひらいて、空を

    私はちいさく手を振る。彼女はタブレットに目を落としてほほえんでいる。私に気づかない。私はそっと彼女の横にまわる。突然目の前に顔を出して驚かせようとすると彼女は片眉を上げて私を見、子どもか、と冷たく言う。それからにっこりと笑う。くっきりと刻まれるきれいな笑い皺、骨のかたちの透けて見える長い指、そこにつけられたいくつもの派手な色の石、よくデザインされたいかにも高価な衣類。私も笑う。そうして尋ねる。なに見てたの、うれしそうだった。講演の感想だよと彼女はこたえる。 彼女はいわゆる社会起業家だ。この数年で少し有名になったようで、そうしたことに関心のある企業や学校で講演などもしているということだった。感想は良い、と彼女は言う。学校行事を切り抜けたい子どもが通り一遍のせりふで講演者を褒めそやしている文章。講演から連想された自分の体験を綴り、もはや感想ではない文章。ときに激烈な批判。そういうものをひっくる

    他人の偽善の遇しかた - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2015/09/10
    “理屈の通らない非難には彼らの感情がある”
  • 愛に関する事後的な学習 - 傘をひらいて、空を

    人を上手にだいじにできる人ってやっぱり生育歴上で親とかに上手にだいじにされてきたことが多いよ、つまり、愛情に関して育ちが良い。そりゃそうだ、愛情に関する学習は親とか養育者の影響が初期値だもの、だけどさ、私は初期値が不利だからって人を上手にだいじにすることができないとは思わない、人を適切なかたちで愛することは、訓練は必要だけど、誰にだって可能なことだと思う。 断定するなあ、どうして。どうしてって、そりゃあ、私自身が、愛情に関して育ちが良くないからですよ、あとから学習すればOKだと仮定して努力してきたんだよ、親が悪かったらもうアウトだなんて、私はぜったい認めない、「養育者から抱きしめられず、褒められもせず、精神的サンドバックとして一定年齢まで使用されると、その後のリカバリは不可能です」みたいな話って、ときどきそこいらに落ちてるけど、そんなもの私は信じないね、燃えるゴミとして扱う。 リカバリは可

    愛に関する事後的な学習 - 傘をひらいて、空を
  • パーフェクト・ウーマン最後の課題 - 傘をひらいて、空を

    可愛いねえと言うとありがとうと彼女は言った。でもそれ見のまんまなの。見のまんまにできるなんてすごいなあと私は感心してしまう。そもそも保育園の子の持ちもののすべてを手作りして刺繍まで入れるなんてすごいし、子どもを産んでいることもすごいし、仕事の量と質もすごいし、結婚相手と二人でがんがん働いて家まで建てたし、全体に偉業を成している人というかんじがする。いつだって感じのいい服を着て、ものやわらかなようすをしている。この人は私みたいに「めんどくさい」という理由のみで化粧もせず出勤したり、大鍋でカレーを作って三日間べ続けたりしないんだろうと思う。いつのまにかシャツにそのカレーが落ちていることもないと思う。大鍋で両手がふさがっていても足でドアを閉めないんだろうと思う。 でも可愛くないでしょう、見のまんまじゃあ。彼女は珍しく少しばかりバランスの崩れた表情をちらりと見せる。私は刺繍を見る。花柄だ。

    パーフェクト・ウーマン最後の課題 - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2014/06/04
    “可愛くないというのはね、腹立たしい相手がいるのにそいつをけなす材料がなくって、でもけなしたくってしょうがない、みたいな時、あんまりものを考えてない連中が遣うせりふで、基本的に卑しいものだよ。”
  • どうか忘れていますように - 傘をひらいて、空を

    帰省は今日までだと彼女が言うので、見送りがてら少し飲むことにした。彼女の両親と兄はずっと東京に住んでいる。彼女は進学のために名古屋に出て、そのまま就職して結婚した。小規模な町のようでもある駅の敷地の中の小さい店で飲んだりべたり話したりしている人たちはしばしば大きな鞄やキャリーケースをかたわらに置き、すぐにどこかに行って二度と帰ってこないみたいに見えた。 お行儀悪くカウンタに頬杖をつき、去年の話をしようと彼女は言う。私は賛成する。だって今年の話なんかまだ二日分しかない。「今年の目標」とか、それくらいだ。彼女が水を向けるので私は意気込んで話した。あなたはと訊くと彼女も話した。去年はね、旦那のおばあさまが大往生して、会社の同期がひとり辞めて、引っ越して、交通事故に遭った。私はたいそう驚いて交通事故と鸚鵡返しに口にした。友だちの運転する車で高速道路を走っててスリップしてがしゃん、と彼女は言った。

    どうか忘れていますように - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2012/01/05
    落ちたら死ぬかもしれないことを思い出すと必ず落ちるというの。バランスを崩して
  • 蛙にしてはいけません - 傘をひらいて、空を

    別の部署から顔見知りの同僚がやってきて、はちにいぜろの件で、と言った。後ろの席の後輩が立ち上がって、ヤマザキさんですねとこたえ、出ていった。 午後を少し回ってから給湯室に立ち寄って昼を温めていると、後輩が通りかかって、マキノさんこれからですかあ、私もべます、と言う。後にコーヒーを淹れ、私たちは少しのあいだ黙ってそれをたのしんだ。たっぷりしたマグカップの中身が三分の二ばかり減ったころ、ヤマザキさん、と私は言った。ええヤマザキさんの件で打ち合わせしました、と後輩は言った。 ヤマザキさんはこの会社の関係者で、たびたび苦情を申し立てる人だった。担当部署では対応しきれず、とうとう関連部署から何人かが集まって対策会議をひらいたらしかった。 えらいねと私が言うと彼女は首をかしげて訊く。業務内容からして私がミーティングに出るの当たり前じゃないですか。そうじゃなくて、ヤマザキさんて呼ぶから、と私は言う

    蛙にしてはいけません - 傘をひらいて、空を
  • 魔法使いの種類とその資格について - 傘をひらいて、空を

    忘れたころに電話がかかってくるのはいつものことだ。最近どうと訊かれるのもいつものことだ。だから私もいつものように近況を報告する。私が先に話し、彼があとに話す。電話はいつも彼からであり、私はそれが取れなかったときは必ず折りかえす。 いつのまにかできた長電話の慣習を、私たちは律儀に守る。友情においては不確定性を減少させる努力が重要だ。突発的なできごとを排除し互いに楽をさせる。二者関係の領域を暗黙のうちに注意深く定めそれを決して侵犯しない。私たちはその種のふるまいを親切あるいは礼節と呼ぶ。 ひとしきり近ごろの仕事について話してから、でもそういうのあんまり興味ないよねと私は言う。だってお金にならないもの。そんなことないと彼はこたえる。金には魔力があるから俺はその流れにいつも興味を持っててそういう仕事をしてるけど、でも、金にならないのに成されるものごとには別種の魔法が働いてるわけだから、興味あるよ、

    魔法使いの種類とその資格について - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2011/06/29
    買うことに依存しているやつは買う力を支配することができない。芸術に幻惑されきってしまう人間は芸術家になれないか、なれても長く続けられないだろう
  • 感情とその器 - 傘をひらいて、空を

    今なにしてた、というメールが入ったので、返信を書いた。半身浴をしてから、がんがんに冷やしておいた部屋に出て、あまりにいい気持ちなので叫んだところ。ぽぅ! 数分後にメールが来た。ぽぅってなに。私は携帯電話を操作する。マイケル・ジャクソンがやってたようなやつ。これでお風呂上がりの喜びが十全に表現されると私は思うね。ぽぅと叫ぶと充実感がからだに満ちるよ。送信。 着信。それ一人でやってるの。ばかすぎる。でもなんかこう、ぴったりの感情表現を見つけるとすっきりするよね。それはたしか。笑わないとうれしい感じって出ない。笑って足りなかったらマイケル化するのも、まあわかる。 私は髪を乾かしてからそのメールを読み、そうでしょそうでしょ、と書く。こないだ一緒に買ったサンダル、あれ家で見てたらほんとにかわいくてまたテンションあがっちゃってさあ、でもそれはマイケル化する感じじゃないんだよね。ブブゼラがほしい。ブブゼ

    感情とその器 - 傘をひらいて、空を
  • 仮定による傷、処方としての贈与 - 傘をひらいて、空を

    災害のためでなく、もとより私たちのあいだには電話を使う習慣がなかった。ふたりともけちなのだ。だからおしゃべりにはskypeを、それが普及する前はチャットを使っていた。 私は内心、skypeがある時代でよかったと思っていた。たいした被害も受けていなかったのに、人の声を聞いたら肩の力が抜けた。人の声がことのほかいいものに感じられた。 彼女は茨城のご両親の無事を報告し、それから、募金どこにするのと訊く。赤十字かなと私はこたえる。うちの会社もやるんだと彼女は言う。その発表したらなんかね、きたよ、偽善者ー!みたいな匿名メール。うちみたいなちっちゃい会社にそんなメール送ったっていいことなんにもないのにね。うちの関係者なんだろうけど。 糾弾はある意味でもっとも簡単な参加の方法だからねと私はこたえる。私は思うんだけど、こういう大きな災害とかって、自分の中に位置づけるのがけっこうたいへんなんだよ、直接被災し

    仮定による傷、処方としての贈与 - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2011/03/17
    私たちはたぶん、そういう仮定によってもうっすらと損なわれるんだよと私は言った。でもその傷には実体がないから実体のないもので癒さなければならない。
  • 河川敷に捨てる - 傘をひらいて、空を

    彼女はアウトドア用の折りたたみ椅子に座っていた。私は彼女に会釈してコンクリートブロックに腰をおろした。そこは河川敷の中でも高い確率で複数のと遭遇できる場所だった。私はそこでさわらせてくれるをさわり、さわらせてくれないをながめてぼんやりする。その結果、気の進まない会をとりやめたこともある。 私は直前のキャンセルはすべきでないと考えており、気が進まなくても約束があれば行った。断るのはそのあとだった。けれどそのときはつくづくいやになってしまったのだ。その人のメールからは一度会っただけの私に対するよくわからない幻想が手脂みたいににじみ出ていた。 指先の動きでの気を引いて、病気になってもいいかなと私はたずねた。友だちがね、そんなの病気になっちゃえばいいんだって言うの、いいかな。は私に何の関心も示さなかった。私はなんだか安心して、申し訳ありません、風邪をひいてしまったようです、と書き送った

    河川敷に捨てる - 傘をひらいて、空を
  • 水かきを切る - 傘をひらいて、空を

    ほら、と掌が差し出される。きれいな骨のかたちがわかる白い指が奇妙な動きを見せて、止まる。私はなぜだか反射的にそこから目を逸らし、左側に座る彼女の顔を見る。私はそこにも長いこと焦点を置くことができず(その掌はまだ私の正面に提示されたままで、視界の右側にしっかりと存在している)、視界の中心をふたたび掌に戻そうとする。そうしたとたん、その掌は私の目の前から消える。 彼女の隣の席に新しいお客が入り、彼女は両手を使って私のほうに椅子を寄せる。私はいちばん端にいて席を動かせない。王手、とぼんやり思う。カウンタ席って隣の人につかまえられたみたいな気になるから、不穏で好きだ。それに横顔は、正面から見るときより情報量が減っているのがいい。うつくしい人のうつくしさや鋭い人の鋭さが緩和されて、ずっと見ていても疲れない。 私は片手で髪を押さえて升の中の小さいグラスにくちびるをつけ、それから彼女を見て、むしった畳鰯

    水かきを切る - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2011/01/25
    手を切ってもっと弾けるようになるなら切るというのは、とてもいいと思う、って。それは上手くなりたいという健全な気持ちがそうでない領域に足を踏み入れる瞬間で、個人的にその瞬間を愛好する、って。
  • ヒーローをみつけた日 - 傘をひらいて、空を

    途中まで友だちが車で送ってくれて、あとは歩いてきた、と彼は言った。彼女がどうやって来たのと訊いたからだけれど、彼らのどちらもそんなことに興味はなかった。でも彼らは口を利く必要があったし、それによって感情をやりとりする必要があった。彼女は十八で、地震が来るまで受験のことしか考えていなかった。それからいくらも経っていなくて、彼女はまだ興味というのがどういうものか、うまく思い出すことができなかった。 感謝しなくてはいけないと彼女は思う。この従兄は京都に進学していて地震に遭わずに済んだのにわざわざやって来て、自分の両親だけでなく近所の親戚の無事(あるいは無事でなさ)も確かめて助けてくれて、今から帰ってしまうのだから、と思う。 彼は彼女に封筒を手渡す。お金、と彼は言う。少しだけど。なにしろ現金はあったほうがいい。彼女がうまく感謝できずにいると、気にしなくていいと彼は言った。僕が予備校で適当に荒稼ぎし

    ヒーローをみつけた日 - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2011/01/25
    グッと来た!
  • 間がもたないデートと精神的な内臓 - 傘をひらいて、空を

    私が電話に出るなり、あのさ、彼氏とどんな会話する、と彼は訊いた。彼氏によると私はこたえた。相手によって話題は変わる、友だちと何しゃべってんのって訊くのと同じで、具体的な内容を答えられる質問じゃないね。 めんどくせえ女だなあ、今までの誰かひとり適当に見繕って答えてくれってことだよ、空気読め、と彼は言った。なんで私があなたの吐いた空気を読む義務があるのと私は訊いた。彼は楽しそうに笑った。彼は会話の中で軽くやりこめられるのが好きだ。 私は携帯電話を耳に当てたままベッドに寝そべって話す。まずは好きって言うよね。そんなん一秒で終わるだろと彼は言う。二文字じゃん。わかってないなと私は言う。好きにもいろいろバリエーションがあるの。褒めるとか。人によってはなに着ててもまずは褒めてくれる。なにも着てなくても褒める。どうかすると電話に出ただけで「相変わらずかわいいねえ、声がとても」とか言う。 狂ってると彼は言

    間がもたないデートと精神的な内臓 - 傘をひらいて、空を
  • 瓶詰めにできないシステム - 傘をひらいて、空を

    コンサート、よかったら一緒に予約しておくよ、と彼女が言うので、ありがたくお願いした。彼女は自分と夫と私、それにもう一人の友だちのチケットを押さえた。 終演後の会場から駅に向かって歩きながら、私は彼女にこっそり訊いてみる。ねえ、どうして私とかも誘ってくれたの。前は旦那さんと二人で行ってたじゃない。彼女は前方に目を遣る。べつの友だちが手振りをまじえて彼女の夫に話しかけながら歩いている。 彼女と彼女の夫は共に社交的とはいえないたちで、いつもふたりでいることを好んでいた。彼らは特別にあつらえた空気に包まれているように見えた。彼らふたりが慎重に配合した、私たちが不用意に吸ってはいけない空気だ。 コリドーって知ってる、と彼女は言った。こり、なに、と私が訊きかえすと、彼女は、水辺なんかで生態系のありかたを観察したことはある、と質問を重ねる。私はおぼつかなくこたえる。えっと、なんか、小さい池とかで、ぐるっ

    瓶詰めにできないシステム - 傘をひらいて、空を
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    footwork_x 2010/08/03
    >私たちを長持ちさせるために、私たちを薄めているの。
  • 神さまを借りる - 傘をひらいて、空を

    じゃんけんで決める、と教官が言った。はあいと私たちはこたえた。私はそのとき大学生で、ゼミのキックオフミーティングに参加していて、発表の順番や雑用の担当を決めていた。 そのあとの飲み会で、でもどうしてですか、と誰かがたずねた。なんでじゃんけんなんですか、先生が適当に割りふるとか、話しあって決めさせるとか、そういうんじゃなくって。 彼は眉をたがいちがいに動かしてから、偶然がいちばん正しいから、とこたえた。 あのさ、みんな人前で発表するのとかはじめてじゃんか。なるべく遅くにやりたいよね。文献読むのだって先延ばしにしたいだろうし。俺が学部生のときだってそうだったもん。ほかに楽しいこといっぱいあるし、とにかく布団から出たくねえよ、みたいな日もあるし、バイトで稼ぐのがいちばん大事な時期もあるし、だいたい、若いとすぐ変なこと考えてなんか穴っぽいところにはまるんだからさ、あれってなんだろうな、ホルモンバラ

    神さまを借りる - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2010/07/01
    偶然に起きてしまったことの暴力的な説得力。
  • 食べられないきれいなもの - 傘をひらいて、空を

    一冊のノートを買った。ちょっと上等な紙を使ったきれいなノートだ。表紙はあざやかな赤を基調としたデザインで、八つになる女の子向けに作られた商品ではないけれども、私は彼女の親ではないから、年齢にそぐわないものをあげてもかまわないと思った。 お誕生日おめでとうと言ってそれを渡すと、彼女は生真面目にありがとうございますと言った。それから、日記とか書くね、と言った。目の前の大人の欲望に聡い。可哀想だ。 無理をして書く必要はないんだよ、紙は腐らないから。だけどね、おばさんがブログにあなたの作文のことを書いたらいろんな人がすごくほめてたよ、みんなあなたの書いたものが好きみたいだよ、だからノートがあってもいいかなっておばさんは思ったの。 そう言うと彼女はほとんど不機嫌に見える表情になった。ほめられるのが好きじゃないのだ。ひと一倍ほめられたいくせに、またほめてもらうことを期待する自分がいやで、それからほめ言

    食べられないきれいなもの - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2010/06/01
    何度も読み返したくなる文章。
  • 音楽を好きになりたかった - 傘をひらいて、空を

    音楽をはげしく求めたことがない。音楽に対して、私はいつも受動的だった。ときどき周囲の誰かが音楽を選んで、カセットテープや、MDや、CD-Rに入れて、私にくれた。私はそこから気持ちよく聴けるものを選んでTSUTAYAに行き、同じ人が出しているものを借りた。どうかすると何日も音楽を聴かないこともある。覚えているかぎり以前から、私はそんなふうだった。 そういう話をすると、まじすかと彼は言った。まじ、と私はこたえた。彼は笑って、今の似合わないですと言った。私は少し反省した。若者たちと話すと、くだけたことばを使いたくなってしまう。珍しいことばを使えるのがうれしいのだ。まじというのは実のところ、私が十代のころからある表現だけれども。 驚きあきれました、と彼は言った。あさまし、と私は訳した。あれっていいことばですよね、復活させればいいのに、と彼は言った。それからふうとため息をつき、改めてお説教の口調をつ

    音楽を好きになりたかった - 傘をひらいて、空を
    footwork_x
    footwork_x 2010/05/24
    名文やなぁ・・・
  • 機械としてあつかって - 傘をひらいて、空を

    コンビニエンスストアに入ったら、おばあさんがレジの人に話しかけていた。何時までこうしてお勤めになるのかしら。こんなに遅くまでねえ。感心なことねえ。 私たちはおばあさんの隣のレジで買い物を済ませて外に出た。さっきの店員さん、困ってたねえ、と彼は言った。そうだねえと私はこたえた。彼はしばらく歩いてから言う。 なぜ困るかって考えると、定型の反応ではいられないからなんだけど、もっと推しすすめて考えると、コンビニで働いてるときは「レジを打つ機械」みたいにあつかってほしい、ということなんだろうと思う。職業を遂行しているときって、だいたいそういうものなんじゃないかな。俺も仕事中は「所定の書式を埋める機械」としてあつかってほしい。そりゃあ、昼休みには個人的な話もするし、ときどき仕事仲間と飲みにも行くけど、でも業務中はなんというか、機能としてあつかわれたほうが、楽なんだよ。メールを打つ肉のかたまり、電話をす

    機械としてあつかって - 傘をひらいて、空を