fuminaruのブックマーク (48)

  • 底辺って何だろう…

    ただ自虐的にそう言っているだけだろうと思ったが、その知人いわく、コンビニで働くというのは、一般的に底辺なのだそうだ。

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    fuminaru 2013/05/28
    コンビニのバイトって底辺だったの?
  • 礼拝は長い方が良いのだろうか

    先日、久しぶりにペンテコステの礼拝に出席した。 昨年までの約20年間、ペンテコステの礼拝を続けていたが、しばらく遠ざかっていた。およそ半年ほどのブランクだろうか。 馴染みのスタイルのはずだが、非常に長く感じた。時間をみると2時間半程かかっていた。そういえば母教会では、3時間から4時間かかる時もあった。ペンテコステ系がどこもそうという訳ではないと思うが。 今現在、私は主にバプテスト系の礼拝に出席している。そこはだいたい1時間程で終わっている。それが自然に感じられるようになっているから、余計に長く感じたのかもしれない。 多少不謹慎ではあるが、長い原因を考えながらの礼拝だった。私の分析によると、ペンテコステの礼拝が長くなる原因は賛美礼拝と祈りにある。 賛美礼拝におよそ40~50分かけている。曲数は全部で5、6曲だから、1曲にかける時間が長いのがわかるだろう。恐ろしいくらいに繰り返している。サビな

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    fuminaru 2013/05/27
  • 継続できないなら、始めるべできはない

    何年か前に、韓国のソウルを訪問したことがある。 観光でなく、教会研修としてだった。ソウル市内には無数の教会があるが、比較的大きな4つの教会を見させていただいた。どれも日では考えられない規模であった。 その期間中、ある教会の主任牧師に、タイミングよく会うことができた。 なかなか会えない人らしく、「たいへん貴重なことですよ」と言われたのをよく覚えている。 その主任牧師と話したのは15分くらいだったと思う。こんなことを言っていた。 「韓国人は何でも始めるのが得意だが、継続するのが苦手。 日人は始めるのが苦手だが、継続するのは得意。 韓国人と日人が一致協力すれば、とても良い働きができる」 当時はそうかと納得していた。確かに、知り合いの韓国の方々は積極的で行動力がある。 日人はどちらかと言うと、引っ込み思案な人が多いかもしれない(もっとも、それは国民性の違いの話であって、すべての韓国人と日

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    fuminaru 2013/05/26
  • 歯止めのきかない拡大志向の恐怖

    「僕は上昇志向が強い」とMはよく言っていた。 そのせいか、私は「上昇志向」という言葉が嫌いだ。 もちろん、上昇志向そのものは悪くない。 より高い次元を目指すことは、決して悪いことではない。 教育の手法としても、容易な目標でなく少し背伸びしないと達成できない目標を与えた方が、成長率が高いと聞く。 が、その状態が長く続くとしたら、話は別だ。 Mの事業の歴史を見てみよう。 2001年、チャーチスクール開校。 2007年、神学部開校。 2009年、「祈りの家」開始。 2010年、NPO法人取得。 2011年、東日大震災の被災地支援開始。 2012年、テレビ局開局に乗り出す(が、4月に不正がバレて失踪)。 Mのそれは、上昇志向というより、拡大志向と言った方がいいような気がする。 2010年から、彼の異常さが如実に現れはじめた。 この年に「祈りの家」が格始動したが、同時にスポーツ教室、楽器教室、カ

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    fuminaru 2013/05/24
  • 夜中に神社仏閣に集まるクリスチャンたちの悲しさ(?)

    「地域を縛る悪霊」が存在する、という説がある。 どれだけの教会がそれを信じているか知らないが、私の教会は信じていた。 実例を挙げるとこうだ。 教会での伝道集会や、様々な個人伝道を繰り返しても、人々がなかなか入信しない。それはその地域が悪霊に縛られているからだという。その悪霊を追い出さない限り、その地域の人々は解放されず、福音(聖書の話)に対して心が開かれない。だから伝道の前に、悪霊の追い出しが必要だ、ということになる。 それで牧師らが一生懸命に祈った結果、その地域のどこが悪霊のスポットなのかがわかる(だいたい神社とか寺とかだ。そんなこと祈らなくても想像がつくだろうが)。それで祈りのチームが実際にそこに行き、悪霊追い出しを祈ったり、命じたりする。 行った人たちの感想を聞くと、だいたい「はじめは重く感じたけれど、祈ったら軽くなった」とか「祈ったら打ち破りを感じた」とか「ブレイクスルーが起こった

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    fuminaru 2013/05/23
  • 教会員であるかないか、でなく、どんな教会員であるか

    母教会の解散以降、私はまだどこの教会員にもなっていない。 知り合いの教会の日曜礼拝に出席させてもらうだけで、教会活動からも離れている。 心配して声をかけて下さるクリスチャンの方々もいて、大変感謝である。 彼らは口々に、「しばらく休んだら、まだどこかの教会に属したらいい」と言って下さる。 私もそうだとは思うのだが、それにはまだ時間がかかるような気がしている。 クリスチャンは教会員であるべきなのか、どうか。 私個人は、特段の事情がなければ教会員であるべきだと思っている。が、無教会主義の方とケンカする気もないので視点を変えたい。 教会員であるべきかどうかもさることながら、教会員としてどうあるべきかも大切だという視点だ。 多くのクリスチャンは、教会で奉仕する羽目になるものだ。が、やっているうちに奉仕で忙しくなってしまうことが少なくない。これは極端な例かもしれないが、奉仕が忙しすぎて礼拝どころでなく

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    fuminaru 2013/05/23
  • 牧師批判はいけない、という平和ボケ

    ネットには牧師批判、教会批判が少なからずある。 根拠を挙げた真摯な批判もあれば、品性ゼロの罵詈雑言もある(それは誹謗中傷であって批判ではないだろうが)。

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    fuminaru 2013/05/21
  • 恐怖に縛られた教会生活をしていないか

    例えば牧師を「牧師先生様」と敬い、講壇をも神聖視してしまうような教会風土だと、牧師と信徒の関係は、王様と召使いみたいになり得る。が、逆に長老制の教会だと、牧師との関わりは非常に薄いものかもしれない。そういう教会組織が自ずと作り出す「牧師―信徒関係」というのはあるだろう。

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    fuminaru 2013/05/20
  • 繁栄の神学、って神学じゃないでしょ

    簡単に言うと、いわゆる拝金主義信仰だと私は思っている。 要約すると、 ・私たちが繁栄することは神の御心である(だから繁栄しないはずがない)。 ・私たちがまず捧げるならば、何倍にもなって返ってくる(だから捧げなさい)。 ・繁栄しないのは、捧げ足りないから、不信仰だからである(だからもっと捧げなさい)。 となる。 物質的繁栄は、確かに神の祝福である。が、それは一側面だ。ヨブ記を読むと、その繁栄が取り去られるのもまた、神の祝福であることがわかる。 新約聖書のパウロも、豊かな時もあったが貧しい時もあったと言っている。繁栄神学信奉者からすると、パウロは不信仰ということになるのか。 その神学(?)が行き着くところは、何がなんでも繁栄しなければならないという強迫的心理だと思う。彼らには、繁栄していない状態があってはならない。が、それが結果的に、献金強要・奉仕強要に繋がっていくのではないだろうか。 ある大

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    fuminaru 2013/05/19
  • 死者をよみがえらせた…それで?

    前回「いやし」について書いたが、その関連で「死者のよみがえり」について書きたい。 昨年8月の川口リリアの集会に、タンザニアの牧師がゲストとして迎えられた。彼の得意分野(?)は「死人のよみがえり」だそうで、すでに400人以上を生き返らせているという。それと関係あるかどうかわからないが、ナイジェリアではすでに1000人以上の人間が生き返っていて、アフリカではそんなことぜんぜん珍しくないよ、朝飯前だよ、的な表現で宣伝されていた。 その集会の一部に、私の母教会も奉仕で参加する予定だった。 が、同年4月に元牧師のMが失踪したので、それもなくなった。だからその集会には私は行っていない。 その後、集会中に死人が生き返ったという話は聞いていない。 その集会の実行委員の一人は、新宿のある教会の牧師である。その教会では「24時間の祈りの家」が始まっているが、この「死人のよみがえり」にも積極的なようだ。これは関

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    fuminaru 2013/05/17
  • 残念な「いやし」の集会

    プロテスタントの超教派的な活動の一つに、「いやし」をテーマにした集会がある。 海外の有名無名の講師を呼んで、「いやし」について講義してもらい、実践してもらう。よく川口リリアや板橋区文化会館などで、定期的にやっている。小規模なものも各地にあるかもしれない。 ここで言う「いやし」とは、薬をのんで安静にしていたら風邪が治ったという類のものでなく、神様によって、病気や怪我が瞬時に治ったり、瞬時でなくても医療の常識を凌駕するような回復をしたりするという意味である。上記の集会のポスターなどにも、歩けなかった人が歩けるようになった等の実例が紹介されている。 病にある方には、願ってもないことであろう。 私は基的に、神様が人をいやす方であると信じている。聖書には確かに、奇跡としか表現できない「いやし」の数々が記されている。そういう「いやし」が聖書の時代の話だけであって、現在は絶対にない、とは言えないと思っ

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    fuminaru 2013/05/16
  • すごい賛美礼拝?

    私の母教会の日曜礼拝には、新しく来る人が多かった。毎週ではないけれど、けっこうな頻度で新来者がいた。 が、それはだいたいがノンクリスチャン(未信者)でなく、クリスチャンだった。別の教会の信徒だったり、いろいろな教会を転々としている人だったりだ。 彼らが来た理由で多かったのが、「この教会の賛美礼拝がすごいと聞いたから」だった。 賛美礼拝とは、まあ礼拝で歌を歌うことである。讃美歌とか聖歌とか、コンテンポラリーな歌とかを歌って神様を礼拝する。 その賛美礼拝が「すごい」と言うのは、どういうことだろうか。 思うに、神様の臨在(存在感)を感じるということであろう。賛美をしていて神様に「触れられる」とか表現するような現象だ。 その「触れられた」証拠として、感動するとか涙が出るとか、それまでなかった安心感がくるとか、喜ぶとか、実際的に何かに触れられた感覚があるとかというのがある(が、それらが当に主の隣在

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    fuminaru 2013/05/14
  • 「のぼう」のリーダー像は型破りなのか

    映画「のぼうの城」をDVDで観た。非常に感銘を受けたので書きたいが、映画評とは少し違う。 映画としてたいへん面白かったし、スケールのでかい作品をよく作ってくれたと思う。制作に関わられた皆さんの努力に賛辞を送りたい。 私が感銘をうけたのは、野村萬斎演ずる主人公の成田長親、愛称「のぼう様」のキャラについてだ。 この映画のキモは、豊臣の軍勢二万に対し、北条方はたったの五百、しかも総大将は「何にもできない」のぼう様という、圧倒的不利な戦況をどうひっくり返していくか、にある。 こののぼう、侍でありながら、馬の乗り降りすら満足にできない。剣術にも戦術にも長けているようには見えない(そういう活躍の場はない)。普段から、田畑で農民たちと戯れているだけだ。

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    fuminaru 2013/05/11
    映画「のぼうの城」を見て、リーダーシップについて考えてみた。
  • 間違いの連鎖

    特に年数が経っているクリスチャンなら、それだけ豊富な体験がなければならないという強迫観念からか、何でもかんでも「レーマだ」「神に語られた」と決めつけてしまうかもしれない。それを見る新米クリスチャンたちも右にならえになる。 その心理状態は、集団催眠に似ている気がする。 現時点ではレーマ自体を肯定も否定もしないが、そうやって人を体験主義に走らせる在り方には問題があると思う。 レーマ信仰の教会のクリスチャンを大勢知っているが、みな純粋でやさしい人たちばかりだ。あえて間違いを犯そうなんて思っていないだろう。「レーマを受け取れ」と教えられるから、純粋にそれを実行しているだけだと思う。 そう考えると、やはりリーダーたちの責任が大きいと言わざるを得ない。聖書もそれを支持している。 が、リーダーたちのせいだで終わらせることもできない。なぜなら彼らにもリーダーがいたはずだし、そのリーダーにもリーダーがいたは

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    fuminaru 2013/05/10
  • 子どもを社会に出すのは危険なことなのか

    幼い頃から教会で育った子たちが、中高生になる。すると学校行事や部活を理由に、教会に来なくなる(来られなくなる)ことがある。同時に関心が外界に向くようになって、いわゆる「この世の楽しみ」に魅了されてしまい、下手すると教会から離れる…と、いうような話をよく聞く。

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    fuminaru 2013/05/10
  • ロゴスとレーマ?

    「聖霊派」系統の聖書解釈だと思うが、聖書の言葉は「ロゴス」と「レーマ」に分けられるという主張がある。 どちらも「言葉」という意味だが、ロゴスは「書いてある言葉」、レーマは「今語られた言葉」だという。 聖書はすべてロゴスだが、その中のどれかを神が個人に特別に語るとき、ロゴスはレーマとなり、言葉通りに実現する、とのことだ。 私もかつて、母教会でそのように教えられた。 しかしパスカル・ズィヴィ氏(マインドコントロール研究所)によると、聖書に両者の明確は区別はないとのことだ。最近親交のあるいくつかのプロテスタント教会も、そのような区別を否定している。 ということは、どちらかが誤っていることになる。 ここでロゴスとレーマの論争をする気はないが、レーマを信じてきた者として少し書きたい。 このロゴスがレーマに変わる時というのは、例えば「胸に響く」とか、「とても感動した」とか、「強烈な印象を受けた」とか、

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    fuminaru 2013/05/08
  • 教会を「見抜く」ススメ

    以前、教会の良し悪しの判断について書いた。 その結論は、信じたばかりの人にはまったく判断できない、そして最初がハズレだと信仰を捨てることになりかねない、ということだった。 が、それだと解決にならない。 目に見えてわかる判断基準があったら、いいのかもしれない。 ・「行ってはいけない教会」というスレッド 「行ってはいけない教会」で検索すると、まず同名のスレッドがいろいろ出てくる。単なる誹謗中傷や理由をあげない全否定もあるけれど、中には丁寧に項目を挙げて書いている人もいて、参考になるかもしれない。例えば「若い人が多い」とか「やたら横文字を使う」とか、「リバイバル」とか「弟子訓練」とか、確かに注意すべき項目だと思う。全部が全部という訳ではないが。 が、それらを満たすから危険な教会だ、と一概には言えない気がする。 その教会の現在の在り方というのは、結果的なことであろう。 もちろん教派の影響もあるだろ

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    fuminaru 2013/05/08
    行ってはいけない教会について
  • 誰のための奉仕なのかを考えるススメ

    神様のために何かしようとする時、結局のところ、礼拝に勝るものはないと私は思っている。 が、皆で礼拝するには準備が必要だし、そのためには教会が運営されていなければならない。そして教会が運営されているのなら、当然宣教活動も出てくる。 というわけで、クリスチャンは幸せに礼拝だけしている訳にもいかない。もちろん全員ではないが、多かれ少なかれ、教会で何かの仕事をすることになる。 その仕事は「奉仕」と呼ばれるが、これがなかなか厄介な問題を含んでいると思う。 奉仕は基、「自分にできること」をすべきだろう。ピアノができる人はピアノ奏楽をした方がいいし、パソコンの心得がある人は週報をつくった方がいい。苦手なことをさせるのは効率が悪いし、人も喜んでできないからだ。 そしてこの「自分にできること」というのは、その人の好きなことだったり趣味だったりする。 では、奉仕とは自分の好きなことをすることかというと、少

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    fuminaru 2013/05/06
  • 初めてのキリスト教会、良し悪しはどう判断したらいいのだろう

    人が聖書の神を信じてクリスチャンになる時は、様々だ。 幼い頃か、成人してからか、老年になってからか、あるいは臨終の間際かもしれない。 が、その方法でいうと、大きく2つに分かれると思う。 一つは、物心がついて以降、聖書の話を聞き、自ら信じてクリスチャンになるというもの。 もう一つは、両親ともクリスチャンで、生まれた時から教会に通わされ、いつの間にか(あるいは当然のこととして)信じているというもの。 前者は一般社会で様々な波にもまれた末の入信となる。 後者は波にもまれるという点は同じだが、そのもまれ方というか、対処の仕方というのは前者と異なる。 両者は同じクリスチャンだが、根的な違いがある。それは前者はいつ入信したか明確に分かっているのに比べ、後者は往々にしていつ入信したかが曖昧であるということだ。 私自身は前者である。18の時まで聖書の「せ」の字も知らなかった。この場合の入信の仕方について

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    fuminaru 2013/05/05
    初めてプロテスタント教会に来た人は、その教会の良し悪しを判断することができない。
  • Taken 2 (96時間 リベンジ)

    さらわれた娘を奪還するため、パリの町で大暴れしたスゴ腕お父さんのその後を描く快作続編。 今度は元と自分自身が囚われ、娘がその救出に乗り出すという、前作の裏返し構造で事件が始まるのが興味深い。 ・父親対決 今回の黒幕は、前作の誘拐犯「トロポヤのマルコ」のお父さん。つまり子を想う親どうしの対決、ということになる。 マルコの父は、息子が誘拐犯だろうが何だろうが関係なく、愛する息子のカタキ打ちに執念を燃やす。その愛情って異常だろうと突っ込まれそうだが、いやいや、我らが主人公ブライアンの異常さも負けてない。娘の教習所通いを徹底管理し、彼氏の居所も即座に突き止めて乗り込む。このお父さん、緊急事態にこそ生きるだろうが、日常ではウザ過ぎて家族はやってられないのではないだろうか。 ・ブライアンと家族の関係 今回の新展開として、元レノーアとの復縁の兆しが見られる。レノーアは富豪の再婚相手スチュアートと別居

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    fuminaru 2013/05/03
    「96時間リベンジ」みた。家族のために戦うお父さん、やっぱカッコいい。