「絵画の在りか」展を見た。一瞬「絵画の在りか」の「(の)在りか」を「在りや」に空目した。「絵画在りや」。勿論「東京オペラシティ アートギャラリー」の壁に「絵画」は「在る」。しかしその「『絵画』が『在る』」という事こそが曲者だ。果たして「絵画」はどの時点から「在る」のだろうか。「絵画展」の会場で、その「在りか」の方へと関心が移ってしまった。 会場やカタログの彼方此方に「┌」「┐」「└」「┘」「─」「│」が配されている。確かに狭義の「絵画の在りか」を可能たらしめるのはそういう事ではある。サボる事しか考えていなかった1970年代の自分の学部生時代、ボール紙を材料に一夜漬けで作った「┌」「┐」「└」「┘」「─」「│」を下掲の形に壁に貼り付け、課題提出の講評会でそれを「絵画」と言い張った記憶(後に「神奈川県民ホールギャラリー」のグループ展に出す)が赤面を伴って会場で蘇ってしまった。その時の評価は最低
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