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designに関するgitanezのブックマーク (681)

  • わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十分その条件下においては論理的だし「正しい」。 そういう思考のオルタナティブを示してくれるからこそ、そうした過去の人類の信仰や文化に触れたりすることは楽しい。自分たちがいかに凝り固まった考えに囚われているかに気づかせてくれるから。 それに、現代の僕らの判断だって、状況をどう捉えるかによって、一見「正しい」と思えるものが「正

    わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 変わることを前提として|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    物事を動的に捉えることが必要だと思う。動的に、というのは、物事は常に変化していくものを前提として考えるという意味で言っている。 何かを行えば、それを行う前とは状況が変わることが多い。積極的に何かを行わずとも勝手に状況が変わって、その状況によって人の心理にも変化が生まれたりする。 いや、変わるのは人の心理だけではない。非人間的な環境の構成要素だって常に変わり続けている。 だから、何かを固定化して理解し、判断するのは、あまり意味がないことだと思う。 何かしようとする際に、それをしようと思った前提条件がいつまでも変わらないと思っていると、いつのまにか条件自体が変わっていて、やろうとしたことの意義自体がなくなっている場合がおおいにあることだから。 変化のシミュレーションを頭の中で行うことをデフォルトにするとよい。 常にこれをしたら何が起こるか、じゃあ、その次はこの手が打てそうだなというのを日常的に

    変わることを前提として|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • ステージアップ|Hiroki Tanahashi|note

    旧来的な組織に対して、これまでにない新しい物事を実現しようとすると、人というものはやはり見たこと、体験したことのないものに抵抗しがちであるがゆえに、あまりに事を急いてしまえばかえって物事が前に進まなくなる傾向がある。 一気に高いところに登ってくださいといっても、不安の方が先にある立つのは、自分で何かを変えるということをしたことがない人にとっては自然なことだと思う。 けれど、いまや変わらずに済ませられる状況などはこの日にはほとんど存在しないはずだ。 だから俗に言う「小さくはじめる」が大事になる。 意識的に自分たちを変えたたことがない人でも待ったなしで変化せざるを得ないのだから、「小さくはじめる」が有効なのだ。 新しい体験をちょっとずつちょっとずつしてもらう。気がつくと最初にいた場所からはずいぶん高い位置まで登っていたとなるようなプログラムをつくる。 そういう小さなステップを踏んでもらうこと

    ステージアップ|Hiroki Tanahashi|note
  • 宇宙のあらゆる構成要素が強度的かつ潜在的に人間である|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    北野圭介さんの『マテリアル・セオリーズ: 新たなる唯物論にむけて』を読んで「新しい唯物論」や「思弁的実在論」といった、人新世だとか、AIやセンシング技術、バイオなどのテクノロジー分野の高度化によるヒトとモノ、人工と自然の垣根が曖昧になりはじめた、ここ最近の社会の変化をとらえる上で有効だと感じる現代の哲学の潮流に興味をもったのをきっかけに、すでにこのnoteでも紹介したように(マガジン「ビブリオテーク」を参照)マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発』、ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』と読み進めてきた。 もともとはあんまり得意じゃない哲学書を集中して読む期間も、4冊、5冊目に突入して、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』、スティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙:思弁的実

    宇宙のあらゆる構成要素が強度的かつ潜在的に人間である|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • ポイント・オブ・ビュー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ほらね、と思わず、言いたくなった。 すぐ下で紹介する文章を見つけて、ルネサンス期における思考の大きな転換を無視して、いまのビジネスシーンにおけるイノベーションの方法は語れないんだって、あらためて確認できたからだ。 「視点」という訳語で二流三流の売文家風情が自分の「方法」を語っている場面などのべつ見せられるこの頃、そのたびに19世紀末のヘンリー・ジェイムズの理論的苦闘を思いだす。「ポイント・オブ・ビュー」が元々はルネサンスの絵画アートの専門概念でしかなかったものを、そっくり小説アートの概念に切り換えたのがヘンリー・ジェイムズだった、ってご存知でしたか。「メソッド」という概念に心底こだわり続けたのはヴァレリー(『レオナルドの方法』)に劣らぬくらいジェイムズであったと喝破した先哲サイファーの『文学とテクノロジー』が全く読まれていないのにほとんど絶望して、最近とにかく復刊企画を通した。 高山宏さん

    ポイント・オブ・ビュー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 生きたInformation Architecture|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    昨日は、World IA Day 2018 Tokyoでの「曖昧さと不確実性」というタイトルでの講演だった。はじめて逐次通訳が入る形での講演だったが、話の仕方や時間コントロールがむずかしかった。 イベント自体のテーマが「IAの倫理と哲学」だったので、「情報はそもそも曖昧で不確実なものである」ことを伝えたいとして話をした。 背景としては「常識だと思っていたものが大きく変化する時代」において、「どうデザインするか? 何をデザインするか? 以上に、何故デザインをするのか?が問われている」と考えていることを話した。それゆえ、既存の枠組みから情報をいったん解放し、「変身=隠喩」的に異なるもの同士をつなぎあわせ、新しい思考を生みだしていくことが必要であり、「隠喩を生むノイズ」をどうプロジェクトに取り入れ、「共創の場で異なる視点を取り込む」ような仕掛けを設計しておくかを大事にしているということを伝えた。

    生きたInformation Architecture|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • メディア論とプロジェクトのデザイン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    計画でも、デザインでもいいのだけど、外の現実を内なる思いに沿うよう変えようと考えるなら、その前提として、外と内との間に何らかの照応が必要になるはずである。 例えば、名前だとか、重さや長さあるいは性別や年齢のような対象となるものの属性データだとか、対象となるものの写真とか、対象に関する調査資料とか。これらは外にあるものを内側で把握するために必要なものだ。 一方で、実際に計画だとかデザインだとかを考えようとすれば、例えば、建築なら平面図や断面図、アクソメなどを使って内なるイメージを外へ投射するための方法として使うし、スケッチだとかモックアップといったもので、内なる考えをどう外に実装しようとしているかのイメージを検証したりもする。 そもそも遠近法だとか、1つ前の「文書に書きだしながらプランを練る」で話題にしたプロジェクトマネジメント計画書なども含めて、内なる考えを外で実現しようとする際に媒介とな

    メディア論とプロジェクトのデザイン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • デザインの誕生|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    designという語が英語として登場してくるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてのことだと言う。 いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1593年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という言葉が、マニエリストのフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中に登場しました。今まで長い間、ヨーロッパのデザインは基的に外界にあるものをたくみに写す技術、ミメーシスの技法でやってきた。ところが1607年の時点で、英語にすると「インナー・デザイン」、この講義だったら「インテリア・デザイン」としかいいようのないイタリア語のディゼーニョ・インテルノ、「内側にあるもののデザイン化」という意味が出てき

    デザインの誕生|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • デザインと言語化|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    何かをちゃんとデザインしようとすれば、様々なことを言語化することを想像以上にはるかに多く強く求められる。 いま誰を対象として考えているのか、問題をどのように捉えているのか、何を問題の原因と捉え、どのようにそれを解決しようと考えているのか。それはいったい、どのような価値がある何をデザインしようとしているのか。 これらを言語化するのは誰か説明するためというより、自分の想像力をより明瞭にするためだ。複数人でデザインに関わっているなら、チームとしてのイメージをクリアにするためである。 もちろん、デザインには言語化するよりもそれ以外の方法を取った方がいい部分はたくさんある。ただ、そうしたものを除いても、デザインの過程においては言語によって明らかにすべきことは想像をはるかに超えてたくさんある。 わかるということは、次に何のアクションをすればよいかがわかること例えば、自分が何のためにデザインしようとして

    デザインと言語化|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • スペクタクルとしてのエクスペリエンス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    体験のデザインは、従来型のデザインとは相性があまり良くないのかもしれない。 従来の特定のもの(物理的なものであれ、ヴァーチュアルなものであれ)を対象にしたデザインは、ものの静的な性質(機能的には動作はしても生物のような生長という変化がないという意味での静的)を前提としていたのに対し、体験を対象にしたUXのデザインは元来、あちこち動きまわり、突然思いついたり、あるいは忘れたりで行動や思考、さらには好みや価値の優先順位がころころ目まぐるしく変わる人間の体験価値という動的すぎるものを対象にするため、個々のデザイン対象物に向かう才能スタンスも大きく変えざるを得ないと思うからだ。 実際、よく言われる体験のデザインは、ユーザーの体験を包括的にみることで、個別のデザイン対象物それぞれを別々に考えるのではなく、ユーザーの体験というひとつの生態系のなかの要素として、互いにつながり関係しあったものとしてデザイ

    スペクタクルとしてのエクスペリエンス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 組み立てる-創造的思考のための基本的振る舞い|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    創造するためには、どのような振る舞いをみずからの思考に(あるいはチームのそれに)促せばいいのだろうか? 創造といっても、別に大それたレベルのものについて言ってるのではない。せいぜい日常的に何かをつくりだすことをイメージしている。 かといって、いわゆる思いつきみたいなものまで、ここでいう創造性の範囲に加えるかというと、それも違う。 何かしら複数の要素の入れ替えたり組み合わせたりしながらの試行錯誤や、論理的に構造化したり、あるいは簡単に作ってみるというレベルのプロトタイピングをして自分(たちの)感性レベルでの検証くらいは経たりといったプロセスを経ることで、ある程度のクオリティ面でのブラッシュアップはされた状態で何かがつくりだされるような、そんな創造性について考えたいわけである。 そういう創造性のための基姿勢っていったいどういうものだろうか?と。 ジャンルが先か、作者が先か?そんなことを思って

    組み立てる-創造的思考のための基本的振る舞い|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 を読んでいて興奮することの1つは、いままさに読んでいるの言葉の1つによって、いろんな別のに書かれた内容がつながり、なるほど!と思える1つのストーリーが自分のなかで編集的につくられることだったりします。 昨日もバーバラ・M. スタフォードの『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』を読んでいて、以下の一文に差し掛かったとき、別のに書かれたさまざまなことが僕のなかでつながりました。 苦悶する肉体の許されぬものと官能ばかりを描く20世紀アイルランドの画家、フランシス・ベーコン(1909-1992)が、自らのおぞましい画像の数々を説明して、こう言っている。「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」、と。 スタフォ

    いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない: DESIGN IT! w/LOVE
  • デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。 しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。 昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、�むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。� 僕らはみな、デザイン力

    デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE
  • スライド公開「デザインの深い森 vol.1 魔王のテーブルのうえで」: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「“デザイン”そのものをリフレーミングする」をテーマに、千葉工業大学の山崎先生といっしょに全6回で開催するイベント「デザインの深い森」なるものをはじめています。 まず9月25日に�「魔王のテーブルのうえで」と題して第1回目のイベントを開催しました。 山崎先生と交互に講演を担当する予定ですが、第1回目は僕が担当。 そのときのプレゼンに使った資料を公開します。 今回は資料のみだとまったく意味がわからないので、講演用に書き起していたスクリプトとともに公開しました(keynoteでつくったものを発表者ノート付きでPDFにはきだし。まー、実際はこのまんまはしゃべってないけど)。 そのかわり絵が小さくなってるけど、そのあたりはご了承を。 大作です。そして、イベントの2回目も参加者募集中

  • 文学というデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前回の記事の冒頭でも書きましたが、20代の頃の僕にとってヒーローは、夏目漱石でした。その後、シェイクスピアもそこに加わり、その2人がヒーローであることに変わりなく、いまに至っています。 僕がその2人をヒーローだと感じている理由は、その2人の文学者がデザイナーだからです。他にも数多くいるデザイナーのなかで、夏目漱石とシェイクスピアが、僕が憧れるデザイナー像なんです。 モノを作ることで人びとの生活を革新するのもデザイナーの役割だと思うんですが、僕はモノによる革新ということにはそんなに関心がないんですね。それよりも僕自身が文章によって人生を革新されている部分が大きいので、それを可能にするデザイン、その思考作業を実際に行う文学者にこそ憧れるんだと思います。そして、そのなかでも夏目漱

    文学というデザイン: DESIGN IT! w/LOVE
  • ジョン・ラスキンの思想から「デザインの本来」を考え直してみる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、自分のなかで「デザイン」という言葉への捉え方が変わりつつあるのを感じています。 それもあって、もう1回、自分のなかで「デザイン」って何だろう?というのを勉強したり、整理しなおしたりしようとしはじめました。 「デザイン」という言葉への捉え方が変わってきているという点では、まず「デザイン」の起源を今までとは違った形で考え直したいなという風に思っています。その起源をどう捉えるかで、デザインという言葉の占めるものも変わってくると思うからです。 数年前からしばらく僕は「デザインの誕生」をルネサンス期以降と考えていました。 Oxford English Dictionaryに、英語としての'design'が初出したのが1593年。 その後、イタリアのマニエリスト、フェデリコ・ツッ

  • Empowering Communities with Collective Action Toolkit | frog, part of Capgemini Invent

    frog’s fieldwork in Africa with the Nike Foundation revealed the need for a universal framework that empowers communities of all shapes and sizes to find and design their own solutions to any problem, any time.

    Empowering Communities with Collective Action Toolkit | frog, part of Capgemini Invent
  • 僕らは、現実から切り離された仮想現実のなかで未来を夢見ているけれど…: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マニエリスム期の画家にして建築家であるフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)は、1607年に発表した「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中でディゼーニョ・インテルノ(Disengo Interno)という概念を登場させています(詳しくは「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」参照)。 ディゼーニョ・インテルノは英語で言い換えればインテリアデザイン。 ツッカーリが用いている意味としては「内的構図」であり、心の内側にあるデザイン案ということと理解することができます。 マニエリスム研究で知られるグスタフ・ルネ・ホッケは名著『迷宮としての世界』のなかで、このツッカーリのディゼーニョ・インテルノ(内的構図)がどのように画家・建築家に用いられるのかを次のように示し

  • 自分たちでやれることの外部化が、未来を志向するために必要な人と人とのつながりを希薄化させる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 いまの時代って、ひとりで悶々と悩んだり、企業などの閉じた世界のなかだけで問題を解決しようとしたりするのに向かない時代ではないかと感じます。 これほど、先行き不透明で、かつ、不透明ではない既存の安定したシステムの寿命もそう長くはないと予測される現代で、特定の機能を果たしたり、特定の戦略の実行に最適化された組織の閉じた環境のなかだけで、何が起こるか分からない状況で突如現れ出てくるさまざまな未知の問題に対処することは理にかなっていません。 だからこそ、ゆるいネットワークのつながりによって、「さまざまな未知の問題」にも柔軟に対応できる、多様性を確保しておくことのほうが必要なのだと思います。 先行き不透明な未来を引き受け、従来の価値観に縛られない将来をつくりだす僕らはいま、先行き不透

  • 「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、会社のほうで進めているプロジェクト「Think Social」では、デザインシンキングのアプローチを用いて行なうサービスデザインをテーマとして扱っていますが、その一方で、やはり個人的な関心としては、人間の知の在り方や価値観を左右する人工物全般としてのメディアに強い関心があります。 例えば、電子書籍的なものもその一部。 ただし、世間的には、講談社が今後の書籍の刊行を紙と電子版を同時に行なうという方針を発表したニュースが取りざたされたり、『WIRED』創刊時の編集長ケヴィン・ケリーがインタビューで「10年後には「」そのものは基的にすべて無料になる」というようなことを言ったりするなど、相変わらず電子書籍の話題には事欠かないのですが、僕自身はどうもこの電子書籍関連の話題に