関が原の戦で毛利輝元は戦わず敗れました。大阪城に3万ほどの兵を温存したまま、関が原には侵攻せず、むざむざ負けたのです。 毛利輝元が3万の兵を率いて関が原へ出陣すれば、西軍が勝っていたといわれています。 そのため輝元は「無能」のレッテルが貼られたことで有名です。 しかし、本当に「無能」だったのでしょうか。見方を変えれば、当時の難しい状況の中で、最善の選択をしたともいえます。 その証拠に毛利家は幕末まで存続して、多くの倒幕の志士を生みます。明治維新後には、日本初の総理大臣である伊藤博文まで輩出したのです。 関が原の戦いで、輝元の的確な決断がなければ、後の明治維新の成功もなかったかもしれません。 祖父の家訓を守った毛利輝元 関が原の戦の当時、毛利家は約120万石の広大な領地がありました。もともとは安芸(広島県西部)の小さな国人領主で、大内氏と尼子氏に圧迫されていました。 しかし、輝元の祖父である
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