新羅以後の花郎[編集] 高麗時代、八関会において仙郎の歌舞が行われた。八関会とは、秋の収穫祭と仏教節会の習合した行事であり高麗朝一代を通じて行われたが、極端な儒教政策をとる李朝により廃止された。八関会の中心となる仙郎は「四仙」とも呼ばれ、良家から選ばれた四人から成った。四仙は東海岸の名勝に遊んだとの伝説が残る四人の花郎に由来する。このように、八関会の仙郎は新羅の花郎とは密接な関係にあり、花郎の直接的な後裔と考えられる。 民間では、山寺で仙郎と呼ばれる者が僧俗に奉じられ、その中で美貌の少年閔頔を忠烈王 (在位:1275年 - 1308年) が召し出して国仙としたという。また、忠烈王代以後、王家の末裔が免除された役として「国仙」が現れる。この国仙は軍役を指したとみられるが、忠烈王以前にはまったく見られない。閔頔の例とあわせて、忠烈王の懐古趣味から出たものと考えられる。 李朝時代には、花郎は男の
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