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  • ここに始まる〝不滅の9曲〟。ベートーヴェン『交響曲 第1番 ハ長調 作品21』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ベートーヴェン(1801年の肖像) 第1シンフォニーの評判は? 1800年4月2日にウィーンのブルク劇場で開催された、ベートーヴェン初のアカデミー(作曲家主催のコンサート)。 メインは、プログラム最後、大トリに持ってこられた記念すべき第1シンフォニー。 ベートーヴェンはすでに29歳になっていて、たくさんの名曲を作曲していましたが、シンフォニーについては長年構想を温め、推敲を重ねて、ようやく満を持して発表にこぎつけました。 モーツァルトが〝最後〟のシンフォニーを書いたのが32歳ですから、ベートーヴェンがいかにシンフォニーの作曲に慎重だったか、気合を入れたかが分かります。 〝不滅の9曲〟の一番目ですから、今から思えば別に不思議はないかもしれませんが、もともとオペラやコンサートのはじまりの曲、いわば前座に過ぎない〝軽い曲〟だったシンフォニーを、ベートーヴェンは初めから、自らの芸術の中核媒体として

    ここに始まる〝不滅の9曲〟。ベートーヴェン『交響曲 第1番 ハ長調 作品21』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 人気が出るほど作者は不愉快?ベートーヴェン『七重奏曲 変ホ長調 作品20』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ベートーヴェン初のアカデミーのプログラム 初!自分主催のコンサート ウィーンでデビューし、日に日に名声を獲得していた20代のベートーヴェンですが、活躍の舞台は貴族のサロンが中心でした。 時々、王侯の御前演奏やコンサートへの客演はありましたが、公衆の前に出る機会はまだ限られていたのです。 しかしついに、自らが主役のコンサートを開ける日がやってきました。 作曲家、演奏家が主催し、その収益を自分のものにできるコンサートは〝アカデミー〟と称されていましたが、宮廷劇場であるブルク劇場で開催できる運びとなったのです。 尽力したのは、一番のパトロンであるリヒノフスキー侯爵。 ウィーンデビューの当初から、自分の邸宅に住まわせ、お抱えのオーケストラを自由に使わせ、主催のサロンコンサートに出演させ、貴族たちに紹介し、プラハ・ベルリン旅行にも連れ出してくれた、若きベートーヴェンのマネージャー兼プロデューサーでし

    人気が出るほど作者は不愉快?ベートーヴェン『七重奏曲 変ホ長調 作品20』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • みんな大好き!ベートーヴェン『ピアノソナタ 第8番 ハ短調 作品13《悲愴》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    比較的弾きやすい?傑作 ベートーヴェンの生い立ちから、一般的には馴染みの薄い若い頃の作品を聴いてきましたが、ようやくポピュラーな作品に出会うことになります。 『悲愴ソナタ』です。 〝月光〟〝熱情(アパッショナータ)〟とともに、ベートーヴェンの3大ソナタと称えられる名作です。 激しい情熱と深い抒情をはらんだこの曲は、聴く人を誰でも魅了してしまいます。 友人のピアノ教室の発表会で、小学生がこれを見事に弾いたのを聴いて、は椅子から転げ落ちんばかりに驚いていました。 はこの曲を聴いたことがなかったらしく、目の前で神童が奇跡を起こしたように感じたようです。 ピアノの弾けない私には分かりませんが、この曲にはそれほど難しい演奏技術は求められていないようです。 大学時代に友人がこの楽譜を貸し借りしているのを見て、こんな曲が弾けるのか!?と問いただしたところ、けっこういけるよ、という答えに驚いた記憶もあ

    みんな大好き!ベートーヴェン『ピアノソナタ 第8番 ハ短調 作品13《悲愴》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 3大巨匠風の3曲セット?ベートーヴェン『3つのピアノソナタ 作品10 《第5番・第6番・第7番》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    いびつな3曲セット 前回取り上げた初期の壮大なピアノソナタ、第4番 変ホ長調 作品7を1797年に出版したあと、翌年、続けざまに若きベートーヴェンは、今度は3曲セットでピアノソナタを出版します。 それが『作品10』です。 献呈者は、ブロウネ伯爵夫人アンナ・マルガレーテ。 ご主人のブロウネ伯爵ヨハン・ゲオルグとともに、この夫はベートーヴェンの熱烈な支持者でした。 ベートーヴェンは伯爵に対しても3つの弦楽三重奏曲 作品9を献呈し、『私の最も優秀な作品を、私の芸術の最高の愛護者に捧げる』と、最高の表現で献辞を記していますから、その関係の深さがうかがえます。 ベートーヴェンはこの夫にはほかにも重要作品を献呈し、1803年に夫人が若くして世を去ったときには、哀悼のため歌曲を伯爵に贈っています。 さて、この『作品10』のコンセプトはなかなか解釈が難しいところです。 ベートーヴェンはピアノソナタを、

    3大巨匠風の3曲セット?ベートーヴェン『3つのピアノソナタ 作品10 《第5番・第6番・第7番》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 〝愛する女〟と呼ばれたソナタ。ベートーヴェン『ピアノソナタ 第4番 変ホ長調 作品7』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    〝男爵砲〟に怒ったベートーヴェン! 1798年、27歳のベートーヴェンが、友人のある男爵に書いた手紙があります。 わが親愛なるスキャンダル収集人男爵様 昨日は、ズメルカル・ドマノヴェッツ流おしゃべりのおかげで、すっかり憂にさせられてしまった(悪魔にさらわれろ)。あなたのお説教を聞くなんてお断りだ。力、これこそが卓越した者にとってはモラル原則なんだ。私にとってもそうだ。だから、もしあなたが今日もまた同じことをくり返すなら、私のやり方が適切で称賛さるべきものだとあなたが認めるまで、とことんあなたを悩ませてやるつもりだ。*1 手紙の宛先のズメルカル・ドマノヴェッツ男爵は、ウィーンに来て以来の、ベートーヴェンの支持者のひとりです。 ベートーヴェンより10歳ほど年上でしたが、その交友は気の置けないもので、しょっちゅうふたりで事をしたり、ふざけ合ったりする仲でした。 どうも今回は、男爵が、ベートー

    〝愛する女〟と呼ばれたソナタ。ベートーヴェン『ピアノソナタ 第4番 変ホ長調 作品7』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 弟が勝手に分割して売り飛ばした?ベートーヴェン『2つのやさしいピアノ・ソナタ 作品49(第19番&第20番)』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    プライベートな教材用ソナタ 引き続き〝18世紀のベートーヴェン〟を聴いていきます。 まだ、運命の耳の病に気づくか気づかないか、という頃です。 ベートーヴェンはピアニスト兼作曲家としてメキメキと腕を上げ、名声もうなぎ登りでしたが、定職はないので、貴族や富豪の子女へのピアノレッスンが大きな収入の柱でした。 そんな頃、1795年から1797年あたりに作られたと考えられる、初心者向けのピアノソナタがあります。 ピアノソナタ 第19番 ト短調と、第20番 ト長調 作品49です。 このふたつのソナタは「ソナチネアルバム 第1巻」に収められていて、モーツァルトの第16番(旧第15番)ハ長調と並んで、ピアノを習っている人にはお馴染みの曲です。 www.classic-suganne.com 素朴な疑問だらけの曲 でもこの2曲には、いくつか、あれ?と思う疑問があります。 まず、作曲時期が、ピアノソナタでいえ

    弟が勝手に分割して売り飛ばした?ベートーヴェン『2つのやさしいピアノ・ソナタ 作品49(第19番&第20番)』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • パクッてないぞ!とベートーヴェン。『ピアノ三重奏曲 第4番 変ロ長調 作品11《街の歌》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ヨーゼフ・ヴァイグル(1766~1846) 旅で成長したベートーヴェン 1796年夏、5ヵ月にわたり、プラハからベルリンに至る生涯で最初で最後の大旅行からウィーンに戻ってきた25歳のベートーヴェン。 友人たちの目には、ひと回りもふた回りも大人になり、自信に満ち溢れて見えたといいます。 モーツァルトの〝旅は人を成長させる〟という信念の通りです。 そして、ますます盛んに作曲活動と演奏活動に打ち込みます。 この時期の作品は〝サロン向けの軽いもの〟と見なされがちですが、決してさにあらず。 確かに後年のベートーヴェンの作品と比べるとそんな印象も受けますが、常に保守層を驚かせ、眉を顰めさせてきた、野心作ばかりです。 しかし、大衆受け、という点も、ベートーヴェンは生涯、十分意識をしていました。 芸術性と娯楽性。 それは決して相容れないものではないのです。 今回取り上げる『ピアノ・トリオ 第4番 変ロ長調

    パクッてないぞ!とベートーヴェン。『ピアノ三重奏曲 第4番 変ロ長調 作品11《街の歌》』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • ベートーヴェンとモーツァルトの時空を超えた競作。『ピアノと管楽のための五重奏曲』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ベートーヴェンがモーツァルトに挑戦? ベートーヴェンはベルリン滞在中、前回取り上げた素晴らしいチェロ・ソナタ 作品5をはじめとした素晴らしい作品を作りましたが、1980年になって、ある傑作もこの旅行中に作曲されたことが判りました。 それは、『ピアノと管楽のための五重奏曲 作品16』。 ピアノに、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットという非常に珍しい編成の曲です。 弦楽器はいません。 自筆譜が残っていないので、いつ作曲されたか定かではなかったのですが、スケッチ帳の紙質や透かしの研究で、この曲に関するスケッチがチェロ・ソナタ 作品5と同じもので、ベルリンで購入された紙と判明しました。 また、スケッチは、ベルリンの前の滞在地であるプラハの紙にも書かれていました。 さらに、ベルリンの紙に手紙の下書きが書きつけてあり、そこには、この五重奏曲を誰かに送る旨と、受け取っても誰にも渡さないように、と

    ベートーヴェンとモーツァルトの時空を超えた競作。『ピアノと管楽のための五重奏曲』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 国王に大喝采を浴びた、ベルリンのベートーヴェン。『2つのチェロ・ソナタ 作品5』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    チェロ・ソナタ作品5をベートーヴェンと初演したジャン=ルイ・デュポール ベートーヴェンがたどるバッハ巡礼の旅 初の長旅に出た若きベートーヴェン。 1796年4月半ば頃、かけがえのない出会い、そして名声を獲得したプラハを後にして、次の目的地に向かいます。 彼を旅に連れ出したリヒノフスキー侯爵は、すでにウィーンに戻っていました。 最初はベルリンまでベートーヴェンを連れていって、プロイセン王に引き合わせる予定だったはずですが、所用ができたものと思われます。 ベートーヴェンはここからは一人旅になりますが、侯爵は十分にお膳立てしてくれていたと見えて、行程に支障はありませんでした。 次の目的地は、ザクセン選帝侯の都、ドレスデン。 到着したのは4月23日でした。 当時の選帝侯は、バッハがロ短調ミサやカンタータを捧げて、宮廷楽長の称号を求めたフリードリヒ・アウグスト2世の孫、フリードリヒ・アウグスト3世(

    国王に大喝采を浴びた、ベルリンのベートーヴェン。『2つのチェロ・ソナタ 作品5』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 伯爵令嬢との楽しいひととき。ベートーヴェン『マンドリンとクラヴィーアのための4つの小品』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ティエポロ『マンドリンを持つ女』 ベートーヴェン唯一のマンドリン作品 リヒノフスキー侯爵に連れられて、ボヘミアの都プラハを訪れた25歳のベートーヴェン。 モーツァルトを愛したこの街で、ベートーヴェンも人気者になったようです。 ボヘミア貴族である侯爵の紹介で、前回のドゥシェク夫人をはじめ、人脈も広がりました。 その中で、ひとりの貴族令嬢とお近づきになります。 当時19歳の、クラリ=アルドリンゲン伯爵令嬢ヨゼフィーネ(1777-1828)です。 この令嬢はマンドリンを上手に演奏しましたが、歌もうまかったといわれています。 前回取り上げたアリア『おお、不実な人よ!』も、ドゥシェク夫人のために作曲しましたが、ベートーヴェンは筆写譜の校閲をした際に、フランス語で『シェーナとアリア、プラハにて、1796年』と書き、イタリア語で『レチタティーヴォとアリア、作曲ベートーヴェン、クラリ伯爵夫人に捧げる』と記

    伯爵令嬢との楽しいひととき。ベートーヴェン『マンドリンとクラヴィーアのための4つの小品』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • プラハのベートーヴェン。コンサートアリア『ああ、不実な人よ!』&モーツァルト『美しい恋人よ、さようなら』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    1793年のプラハ 旅に連れ出されたベートーヴェン ベートーヴェンがウィーンに来て4年目となる1796年。 その名ピアニスト、名音楽家としての名声は日増しに高まっていました。 パトロンのカール・リヒノフスキー侯爵は、そんなベートーヴェンを演奏旅行に連れ出します。 最終的な行き先は、ボヘミアの都プラハ、そしてプロイセン王国の首都ベルリンです。 これは、7年前の1789年、侯爵がモーツァルトを連れ出したのと全く同じルートでした。 リヒノフスキー侯爵は、ボヘミア王国シレジア(シュレージェン)地方の大領主です。 ボヘミア王は、ハプスブルク家当主が神聖ローマ皇帝、ハンガリー王とともに兼任しており、いわばオーストリアの属国です。 そしてシレジアは、かつてオーストリア継承戦争と七年戦争で、新興国プロイセンのフリードリヒ2世(大王)と、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアがその支配権をめぐって死闘を演じた

    プラハのベートーヴェン。コンサートアリア『ああ、不実な人よ!』&モーツァルト『美しい恋人よ、さようなら』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 値引き販売された1作目。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    新発見のロンドを所収したブライトコップフ&ヘルテル社のベートーヴェン全集(1863年刊行) 師匠が変わるたびに書き直された? ベートーヴェンの最初のピアノ・コンチェルトは、前回取り上げた第1番 ハ長調ではなくて、第2番 変ロ長調でした。 今回はこのコンチェルトの数奇な誕生物語を綴ります。 長い間通説とされてきたのは、この曲はベートーヴェンがウィーンに来た1793年頃から書きはじめられ、1795年に完成して、その年3月29日のブルク劇場でのデビューコンサートで初演を飾った、ということでした。 しかし、近年の研究では、そのコンサートで演奏されたのは、第1番 ハ長調だということになったのは前回取り上げた通りです。 さらにベートーヴェンのスケッチ帳の詳細な研究が行われた結果、第2番はもっとはるか以前のボン時代、16歳前後の1786年頃から書きはじめられ、2つの『皇帝カンタータ』を作曲した1790年

    値引き販売された1作目。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 灼熱の太陽から逃れ、さわやかな森へ!ハイドン:オラトリオ『四季』より第2部『夏』第12~15曲〝日照りと暗い森〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    牙をむく真夏の太陽 ハイドンのオラトリオ『四季』の5回目、第2部『夏』の続きです。 前回、夜明けに荘厳に昇り、いのちのみなもとと讃えられた真夏の太陽は、中天に向かうにつれ、その威力が逆に生きとし生けるものを圧迫しはじめます。 まさに大自然の恵みは、災いと裏表なのです。 第12曲のレシタティフでは、前半にシモンが、麦秋、すなわち初夏の小麦の収穫を描きますが、やがて弦が震え、干上がった大地を表現します。 ルーカスが憂いに満ちた調子で、容赦なく照りつける灼熱の太陽について、恨めしそうに語ります。 ルーカスは続く第13曲のカヴァティーネで、猛暑で生気を失った自然の万物のありさまを歌います。 その音楽の描写は真に迫っていて、うだる暑さにへたばる人、動物、植物が目に浮かぶようです。 さあ、暗い森に来ました! 人々が猛暑に嫌気が差した頃、音楽はすっきり爽やかな調子になり、ハンネが『さあ、暗い森に来ました

    灼熱の太陽から逃れ、さわやかな森へ!ハイドン:オラトリオ『四季』より第2部『夏』第12~15曲〝日照りと暗い森〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 朝の来ない夜はない。ハイドン:オラトリオ『四季』より第2部『夏』第9~11曲〝夜明け〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    さわやかな夏の夜明け ハイドンのオラトリオ『四季』の4回目、第2部『夏』に移ります。 『夏』は、夜明けからはじまります。 朝まだき、闇に包まれた村。みな眠っています。 音楽は、ハ短調の暗い序奏から始まります。 ルーカスが、静かに語りはじめ、だんだんと、東の空が赤くなってきます。 うすらうすら、あたりが明るくなってくると、まず目を覚ますのは雄鶏。 黎明の中、闇を追い払うかのように、けたたましく鳴き声を上げます。 コケコッコー!! この声で、夜の王者フクロウはあわてて洞窟のねぐらに帰っていきます。 鶏鳴を聞いて、まず起きるのは羊飼い。 目をこすりながら、羊小屋の扉を開け、羊たちを連れて丘を登っていきます。 やがて、あたりはどんどん明るくなり、羊飼いは歩みを止め、杖によりかかって東の空を眺め、その瞬間を見つめます。 周りの山々が輝きはじめ、ついに太陽が姿を現し、するどい光の矢を放ちます。 ああ、

    朝の来ない夜はない。ハイドン:オラトリオ『四季』より第2部『夏』第9~11曲〝夜明け〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 咲き誇る花々、目にまぶしい新緑、躍動する生命たち!ハイドン:オラトリオ『四季』より第1部『春』第7~8曲〝喜びの歌〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ブーシェ『春』 まさに職人芸!音楽による生き物の描写 ハイドンのオラトリオ『四季』の3回目、第1部『春』のしめくくりです。 ついに、待ちに待った春爛漫の季節が訪れます。 自然界は鮮やかな色彩と生命の輝きにあふれ、それに包まれた人々の心は喜びでいっぱいになります。 村娘ハンネが第7曲のレツィタティーフで、種まきをしたあとの天の恵みの雨を待つ、前曲での祈りが成就したことを告げ、娘たちを誘って野に出ます。 ちょうどきょうから、日も二十四節気の「穀雨」になります。Wikipediaには、『穀雨とは、穀物の成長を助ける雨のことである。「暦便覧」には「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されている。』とありますが、ヨーロッパでも同様に待ち望まれた春雨なのです。 第8曲は『喜びの歌』と題され、美しい野原、田畑の風景、そして生き物たちの躍動に触れた村人たちの感激が歌われます。 ハイドンは、牧場で飛び跳ね

    咲き誇る花々、目にまぶしい新緑、躍動する生命たち!ハイドン:オラトリオ『四季』より第1部『春』第7~8曲〝喜びの歌〟 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 仮面に隠された貴婦人の心のうち。クープラン『クラヴサン曲集』〝フランスのフォリア、あるいはドミノ〟~ベルばら音楽(14) - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ヴァトー『ピエロ(ジル)』 新年はフランス風序曲から あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします! さて、昨年からヴェルサイユを中心としたフランスの古典音楽を聴いていますが、大クープランのクラヴサン(チェンバロ)曲集の続きからです。 次の曲は、小品の中で珍しいフランス風序曲の形式になっているので、1年のスタートにふさわしく、この曲からです。 クラヴサンは引き続きオリヴィエ・ボーモンです。 クープラン:クラヴサン曲集 幻影 La visionaire 第25オルドル(組曲)の第1曲です。1730年出版の最後のクラヴサン曲集第4集の曲です。幻影、は何を指すのでしょう。 それは、今は亡き太陽王と、フランス風序曲を確立したリュリの栄光の時代でしょうか。 もう摂政オルレアン公も世に無く、時代は次に進んでいた頃ですが、クープランはこの最後の曲集の序文に次のように記していま

    仮面に隠された貴婦人の心のうち。クープラン『クラヴサン曲集』〝フランスのフォリア、あるいはドミノ〟~ベルばら音楽(14) - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 太陽王ルイ14世と女たち。リュリ『魔法の島の歓楽』『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』~ベルばら音楽(2) - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュに囲まれた幼少のルイ14世(背後に宰相リシュリュー枢機卿) 太陽王の出生の秘密 ルイ14世(1638-1715)は1638年9月5日に、ルイ13世(1601-1643)と王妃アンヌ・ドートリッシュ(1601-1666)の王子として生まれました。 王妃は〝オーストリアのアンヌ〟の名の通り、フランス・ブルボン王家の宿敵、ハプスブルク家の王女で、政略結婚。 夫の不仲は有名で、アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』では、ダルタニャンと三銃士が王妃とその愛人、英国のバッキンガム公爵との不倫の証拠隠滅のため活躍?する場面があるほど。 ふたりはほとんど別居状態で、23年間子供ができませんでしたが、ある日、狩りをしていたルイ13世は急に悪天候に見舞われ、やむなく近くにあった王妃の城館に泊めてもらいました。 王妃が懐妊したのはその夜だった、と言われています。 しかし、

    太陽王ルイ14世と女たち。リュリ『魔法の島の歓楽』『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』~ベルばら音楽(2) - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • ベートーヴェンのトルコ行進曲。アテネからブダペストへ、古代への熱き思い。ベートーヴェン『アテネの廃墟』作品113 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    もうひとつのトルコ行進曲 〝トルコ行進曲〟は、前回取り上げた、モーツァルトのほか、ベートーヴェン作曲のものもあります。 モーツァルトに比べると一般的なポピュラー度は少し低いかもしれませんが、ピアノを練習している人にはよく弾かれ、親しまれている曲です。 でもこちらはもともとはピアノ曲ではなく、ベートーヴェンが1811年に作曲した劇の付随音楽『アテネの廃墟』作品113の第6曲で、オーケストラ曲です。 今回はこの曲ができたエピソードのご紹介です。 昔は「ブダ」と「ペスト」だった 1812年、ハンガリーのペスト市に「ドイツ劇場」が新築されました。 ベートーヴェンの『アテネの廃墟』は、この劇場のこけら落とし公演の演目のひとつだったのです。 〝ドナウの真珠〟と讃えられ、ヨーロッパ有数の美しい都市といわれる、今のハンガリーの首都ブダペストですが、もともとは、ドナウ川を挟んで西岸は「ブダ」、東岸は「ペスト

    ベートーヴェンのトルコ行進曲。アテネからブダペストへ、古代への熱き思い。ベートーヴェン『アテネの廃墟』作品113 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • ほんとに4日で書いたの!?モーツァルト『交響曲 第36番 ハ長調 K.425〝リンツ〟』と、永久欠番の『交響曲 第37番』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    オーストリア・リンツの街 最後の帰郷を終えて 3年ぶりにウィーンから故郷ザルツブルクに帰郷した新婚のモーツァルト夫。 生まれたばかりの赤ちゃんを残してのハネムーンでしたが、滞在は3ヵ月に及びました。 結婚に猛反対していた父レオポルト、姉ナンネルと、どれだけ和解できたのか分かりませんが、衝突した形跡もありません。 モーツァルトの日常が分かるのは主に父宛の手紙ですが、当然滞在中は手紙は書かないので、姉ナンネルの日記が頼りです。 しかし、それも淡々としたもので、日が間違っていたりして、十分なものとはいえません。もちろん、書いてくれていてよかったですが。 故郷に錦を飾るべく作曲した『ハ短調ミサ』の演奏の翌日、10月27日に夫はザルツブルクを後にします。 当日のナンネルの日記です。 27日。チェッカレッリ、ヴェークシャイダー、ハーゲナウアーが訪ねてくる。ヴァレスコも。9時半、弟と義妹出発。午後、

    ほんとに4日で書いたの!?モーツァルト『交響曲 第36番 ハ長調 K.425〝リンツ〟』と、永久欠番の『交響曲 第37番』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~
  • 先輩を上司のパワハラから救え!ミヒャエル・ハイドンとの交友。モーツァルト『ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~

    ミヒャエル・ハイドン(1737-1806) ザルツブルクで活躍した、ハイドンの弟 モーツァルトが、雇用主のザルツブルク大司教コロレードと衝突し、辞表を叩きつけて大都会ウィーンに飛び出しフリーの音楽家として活動を始めて3年。 新を伴って久しぶりにザルツブルクに帰郷したときのエピソードです。 故郷ではかつての友人たちと旧交を温めていましたが、その中に〝シンフォニーの父〟ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)の弟、ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)がいました。 兄ハイドンはハンガリーの大貴族、エステルハージ家の楽長として仕えていましたが、弟ハイドンはモーツァルトと同じザルツブルク宮廷楽団に勤務していました。 兄ハイドンより6歳年下、モーツァルトより19歳年上の先輩です。 コロレードの前任の大司教ジギスムントのもとでは楽長を務めたこともありますが、このときはモーツァルトの後任として、「

    先輩を上司のパワハラから救え!ミヒャエル・ハイドンとの交友。モーツァルト『ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲』 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~