2006年1月12日06時50分の更新で「梅雨将軍と呼ばれる…」が追加されたが、(その後の変更で更に追加された出典とされる)「長篠日記」(鳳来町立長篠城趾史跡保存館1980年増補改訂版)にはその記述が見られず、さらに当時は「五月雨」(さみだれ)の他にことばはなく、「梅雨」(つゆ、ばいう)は100余年後の貝原益軒「日本歳時記」(1688)貞享5年の記述が初の記録とされます。 はたして「梅雨将軍」は新田次郎の短編「梅雨将軍信長」小説新潮(1964)昭和39年3月号初出(新潮文庫(1979)昭和54年11月25日)からの混同を疑うのですが、史料として確かなものはありますか。 ——以上の署名の無いコメントは、すすす(ノート・履歴)さんが 2014年9月15日 (月) 14:11 (UTC) に投稿したものです。[返信] 信長公記には内藤昌豊が戦死者リストに入っていなかったので「脚注の形で」それを記