日本社会 | 20:17 テリー伊藤の『お笑い北朝鮮』(93年)と村山談話(95年)*1は同時代の事象だ。当時すでに村山談話を支持しつつ北朝鮮を嘲笑しえた主体であれば、いまや恐怖の対象にもなった(らしい)北朝鮮を嘲笑/罵倒しなお村山談話を支持するという芸当も確かに可能だ。村山談話を支持しつつ同時に北朝鮮(笑/恐)に迎合する日本人は、村山談話を右から拒絶しつつ北朝鮮(笑/恐)に迎合する日本人を本気で批判できると思っているのだろうか。 村山談話は日本が北朝鮮化していることを示す(言論の)抑圧*2ではない。むしろ村山談話が抑圧として何ら機能していないことが(村山談話以降)ますます明らかになっているのである。だいたい(北朝鮮による拉致の事実の承認どころか村山談話以前に発生し村山談話以降肥大化している)北朝鮮への侮蔑をもし村山談話が多少なりとも抑圧することに成功していれば、北朝鮮観において左派から極