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ブックマーク / note.com/segawashin (2)

  • PCRはなにをわれわれにもたらしてくれるのだろうか?|瀬川深 segawashin

    新型コロナウイルス感染症(以下COVID-19と略記)は現在なお全世界で猖獗を極めており、一部の国や地域を除いてなお収束する様子を見せていない。残念なことに、邦でも。その一日も早い終息を祈るのは言うまでもないことだが、稿ではCOVID-19をめぐるひとつの奇妙な争点について現在思うことを書いておこうと思う。 PCRについてである。 現在、新型コロナウイルスを検出する有力な手段として全世界で行われている手法だが、なぜか邦では「過剰なPCRをすべきではない」という論が根強く語られている。各国事情を網羅しているわけでもないが、このような論調がドミナントである国は、少なくともいわゆる先進国の中では珍しいのではないかと思う。しかも奇妙なことに、まだ国内的にはCOVID-19の流行が顕著でもなかった2月上旬ごろにはすでにこのような論が語られはじめ、今に至るまでその傾向は続いている。 筆者個人とし

    PCRはなにをわれわれにもたらしてくれるのだろうか?|瀬川深 segawashin
  • 愛知トリエンナーレと「表現の不自由展」に行ってきた|瀬川深 segawashin

    愛知トリエンナーレ内の展示企画「表現の不自由展」に行ってきた。 当初この企画のことを知ったとき、「これは大変なバッシングに晒されるだろうな」と思ったものだが、事実その通りになった。「早晩中止になるかも知れないから見に行くなら今だ」と思い定め、無理矢理予定を半日空けて名古屋まで出向いたが、その夜、脅迫に晒されてこの展示の中止が決まったことを知って予感は的中した。 なんというか、膝から崩れるような落胆を感じはしたが、驚きはなかったし、奇妙なことに憤る感情もなかった。それは、この炎天下に何日も放置していた鍋を空けてみたら予想通りにドロドロに腐りきっていてもはや手の付けようもなかったのと同じようなもので、予想通りと言うよりは予定通り、この日社会がもう取り返しが付かないぐらいにダメになってしまっていることを知らされたというよりも再確認させられただけのことだからなのだろう。 ともあれ、落胆を通り過ぎ

    愛知トリエンナーレと「表現の不自由展」に行ってきた|瀬川深 segawashin
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