ダーシー・トムソンのトランスフォーメーションをユニティちゃんで確かめた。参考文献『進化の存在証明』 リチャード・ドーキンス『かたち』『流れ』『枝分かれ』 フィリップ・ボール『形態の生命誌』 長沼毅『数学で生命の謎を解く』 イアン・スチュアートYouTube版 https://youtu.be/017Fa8Gs4bI© UTJ/UCL
なんでだろう。 例えばブログ界隈をうろついてみる。何かを批判しているブログであるとか、何かにケチをつけているエントリーであるとか、つらつらと探してみる。 そういったブログのコメント欄など見ていると、頭が沸騰した様なコメントをつけている方がしばしば見られる。いわゆる「炎上」しているブログに限らず、ごく普通に運営されているブログの、ごく普通に批判を書かれているエントリーでもそういったコメントは見られる。その内容は批判ではなく、大体の場合罵倒や悪口雑言である。いや、まともな批判もあるにはあるのだが。 例えば、アンチ巨人のページをわざわざ見にいく巨人ファン。 例えば、ブログ論のページにわざわざ「ブログ論うぜぇ」と書き込んでいく人。 以前から不思議には思っていたのだが、未だにはっきりとは謎が解けない。つまり、「じゃあ見なきゃいいんじゃネ?」という疑問がどうしても私には拭い去れないのである。 という訳
最近、自分にとっての「面白い」とか「好き」について、あらためて考えてしまうのです。 僕は基本的に意志が弱い人間なので、外食のとき、「今日は酢豚定食にするぞ!」と思いながら着席したにもかかわらず、メニューをパラパラとめくり、店員さんがオーダーを取りに来た瞬間に「うーん、餃子定食ダブルでお願いします」ということがよくあります。 今日は、いつもと違うものを食べようと思っていたのに…… 書店で本を見かけたときも、最近話題の哲学書と芸能人が書いた告白本みたいなものを見比べて、そりゃやっぱり、勉強になるこっちだよなあ、と哲学書を買って帰るのですが、家に着いたとたんにページをめくるのがめんどくさくなり、「積み本」になってしまうこともよくあるのです。 本当は「こんな下世話な本」のほうが、僕にとっては読みやすいし、読みたいのだろうと思う。 自分のことは、自分では(自分でも?)よくわからない。 いや、わかって
タイトルの叫びには心から同意するんですよ、 ましてや私はもっと先鋭的に「消費者然とした個人ユーザーがカネ稼ぎに走るなんざ"さもしい"以外の何物でもない」って立場だし。 「営利目的のカキコミ」は禁止です。(2015.11) だからネガティブな反応するのは丸2日迷ったんだけど、 なにかの手段じゃなく『ブログする(=自分の書きたいことを書く)ことそのもの』を目的とする、そういう姿勢のブログがいまから増えて、かつ、その姿勢を尊いものだと多くの人が認めてくれる、そんな時代がくる、なんて思えますか? 「その人にしか書けないこと」が読めるのがブログであって欲しい: 不倒城: 「俺が!俺が楽しいから!俺にしか書けない、この記事を書いてるんだ!!!!」 というくらいに、俺の俺による俺感が溢れたブログが、ブログ界隈にどんどん増えていくことを、願ってやみません。 何よりも、私自身が「ブログの読者」であり続ける為
今がどうかはよく分からないけど、昔はとにかく集まって何かやろうと言うがオタクの行動原理で、だから「おたくの研究」で喫茶店に集まっている様子が気持ち悪いと揶揄されたりしたんがだ、要求されるのは知識量ではなくて人を集めてくる能力だったような気がするなあ。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く