「愛煙家」というのは、日国によると、山本笑月の『明治世相百話』(1936、中公文庫版あり)が用例として上がっているが、同書では二箇所でタバコの話題があり、「わが朝煙草の変遷史」では、「もうその頃は巻煙草の種類もいろいろ、若手の愛煙家はその方へ走った」、「煙草が化して桜並木」で、「趣味的に煙草を愛したのはやはり煙管や煙草入れに凝った時代のこと、紙巻煙草の全盛から、追い追い実質的、習慣的の嗜好品と成り下がって、ただフカフカやるだけの、専売局御用の愛煙家ばかり」があって、日国は後の方を採っているのだが、どうも禁煙ファシズムを攻撃すると、すぐにJTの手先とか言う連中と似たような、嫌な用例の選択だ。というより、山本のつもりでは、趣味的に愛するのではないのが、ただ習慣的にフカフカなのだから、ここで「愛煙家」を使うのは変だと思う。 で、私は「愛煙家」ではない。ただの喫煙者である。そんなもの「愛」してどう