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先の選挙中のこと、駅前でビール箱に乗ってぽつんと演説している菅直人前首相の写真というのが中国のネットなどでも話題になっていたようであり、なるほどこれが民主主義かという感想も見られた。その趣旨というのはおそらく、より明確な形で言っていた人もいたようだが、なんでこいつ刺されないのというものだろう。どこのどこまでが誰の責任であるか、特に客観的な評価についてはまだまだこれからの問題であろうと思うが、鳩山政権では八ッ場ダム建設中止問題や普天間基地移設問題、菅政権では東日本大震災後の対応や福島原発事故など、少なくとも政府に対する被害者意識を溜め込んだ人というのを大量に生み出したのが民主党政権3年だったわけだが、まあ発展途上国の感覚ならそういった感情はテロリズムに結び付くだろうし、それを避けるために政治家に対する警備にも厳重なものがある。 何も彼らの世界だけの問題ではなく、日本でも戦前には原敬、星亨、濱
大阪市立桜宮高校の男子生徒が自殺した事件以来、体罰をめぐる議論がかまびすしいようである。「義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示」(asahi.com)などという報道もあり、これに対して「体罰は暴力に決まっているだろう」と反発している人々も見受けられ、一方では前者が必然的に有形力の行使を伴う以上その通りなのだが、「死刑によって殺人は減る」と主張している人に対して(いやその当否はともかくな)「死刑は国家による殺人にほかならない」と言うようなもんやな、とも思う。法による統制を受けていることによって死刑が単なる殺人とは区別されている(ことになっている)のと同様に、体罰も統制されていない暴力とは違うよねという立場もあるだろう(再び、その当否はともかくとしてだ)。要するに出だしの定義問題から混乱しているので、互いにわら人形を叩いている部分がある。 管見の限りではあるが、よほど極端な人を
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