ブックマーク / tokyo1923-2013.blogspot.com (6)

  • 【1923年9月2日午後8時/千歳烏山 椎の木は誰のために(「13本の椎の木」改題】

    東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト事件があったと思われる附近 烏山の惨行 9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。 この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。 朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車

    【1923年9月2日午後8時/千歳烏山 椎の木は誰のために(「13本の椎の木」改題】
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2017/08/16
    "この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚" →うわああああああああ(心の声)
  • 【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】

    語/English 1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。 だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。 (以下、引用) そっちへ走

    haruhiwai18
    haruhiwai18 2016/09/06
    "千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていった""彼は純然たる被害者ではないのである。" →これを演劇化すべき(konami
  • 【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】

    語/English 中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略) 右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日人でない、外交上不利のため余は黙している。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』) 上は、第1師団野戦重砲兵第3旅団第1連隊の第6中隊に属する一等兵、久保野茂次が1923年10月19日に記した日記の一部である。 逆井橋は旧中川にかかっている橋で、都営新宿線東大島駅から北に10分ほど歩いた所にある。王希天は1923年9月12日未明、この逆井橋のたもと

    【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/04/28
    "第1連隊の中島大隊長副官の垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)によって殺害され""害を指示したのは同連隊第6中隊長の佐々木兵吉大尉。金子直旅団長の黙認のもとに行われ" →1923年、隠蔽された「虐殺」。
  • 【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】

    八日 太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰(もら)ふにする 小石川に二斗 郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。 (姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』) 千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収

    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/04/26
    "軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。" →関東大震災の時の「蝗軍」。
  • 【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】

    「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(郷区尋常小学校1年男児) 「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児) 「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児) 「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だ

    haruhiwai18
    haruhiwai18 2014/11/04
    " 【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】""これほどたくさんの子どもたちが無造作に書くほどに、当時、朝鮮人の殺害が珍しくなかった事実を突きつけられること" →明治大正を通じて帝国が育ててしまった産物(こなみかん
  • 【おん身らは誰を殺したと思ふ  文学者の見た朝鮮人虐殺/折口信夫】

    国びとの 心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、 顔よき子らも、 頼まずなりぬ 大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。 (折口信夫による自歌自註。『日近代文学大系 46巻 折口信夫集』) 折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。 折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名

    haruhiwai18
    haruhiwai18 2014/11/04
    "「酸鼻な、残虐な色々の姿」""彼が見た震災直後の東京""おん身らは 誰をころしたと思ふ。陛下のみ名において―。おそろしい呪文だ。陛下萬歳 ばあんざあい" →虐殺を目の当たりにして 折口信夫が残した作品
  • 1