2006年1月13日のブックマーク (7件)

  • 嘘 : 旧・他人の不幸は蜜の味

    旧・他人の不幸は蜜の味 livedoorのスパム対策がひどいため、Seesaaに移転しました。 ※注:コメントは受け付けていません。投稿しても反映されませんので、ご注意ください。 私の「倫理基準」では、、、 「好きです」という言葉は、嘘でも良いと思う。そういうものだとも思う。 「ずっと好きでいます」という言葉の多くは、将来的に結果として嘘になってしまう。 これらの言葉は、都合の良い言葉で言うと「その時の当」であれば良い。 私の座右の銘でもある近田春夫の言葉「嘘は言うけど当だぜ」を、私はそのように解釈する。 しかし、 そして、結果として嘘にしてしまってもいけない言葉だと、私は思う。 だから、 「私のこと愛してる?」 と聞かれると、僕はちょっと身を引いてしまう。

    嘘 : 旧・他人の不幸は蜜の味
    haruji
    haruji 2006/01/13
    なんとなくわかるなぁ…
  • Amor Mundi ユングへ宛てられたある女性患者からの手紙の一節

    …以前私は、いったん物事を受けいれてしまえば、それが何らかの形で私を圧倒してしまう、といつも思っていました。 今は全くちがいます。人間は物事を受けいれることによってこそ、態度を決めることができるのです。ですから今の私は、人生という遊戯を遊ぶつもりでおりますし、この一日と生活とがその時に私にもたらしてくれるもの、善いものも悪いものも、たえず交替している日光と陰をそのまま受けいれています。 以前の私は何と馬鹿だったでしょう。あらゆるものを、自分の頭で考えた通りに従わせようとしてあくせくしていたのですから。

    haruji
    haruji 2006/01/13
    まさにそれだ!
  • Amor Mundi 善意は犬にでも食わせろ

    さてさて、先ほどはone of この世で最も怖い人をメールで怒らせてしまい、われながら笑えるほど慌てふためいて平身低頭。平成の藤堂高虎と呼んでくれい。 それにつけても、ホント人に喜んでもらうのって難しい。 結論から言ってしまうと、結果がすべてなんだよね。背景の善意だとか思いやりなんてのはまったく関係がない。 人間、残念ながら中身は目に見えない。外に現れたものがすべて。つまり、人と人のかかわるところでは、善意なんてのは犬もわない。 だから、とりあえず「善意」を言い訳にするのはやめましょうや。それが役に立つのは、法廷で時折情状酌量がされるくらい。第一、善意では腹がふくれない。 でも、それでも善意だとか、そういう相手を大切に思う気持ちってやっぱ大切なんだよね。 それがなかったら悔い改められないじゃない。どうでもいい相手だったら、別に失敗しても反省しないもの。 もし、善意が物ならば、失敗してか

    haruji
    haruji 2006/01/13
    目に見えるものと見えないもの
  • 愛のないセックス、セックスのない愛 : 旧・他人の不幸は蜜の味

    旧・他人の不幸は蜜の味 livedoorのスパム対策がひどいため、Seesaaに移転しました。 ※注:コメントは受け付けていません。投稿しても反映されませんので、ご注意ください。 コチラやコチラやコチラにエロコメントを残したりしてるんですが、結局、愛とセックスってどうなんだろう、と。 私は今年30になるわけですが、経験人数は2人です。童貞喪失は、たしか25歳の時だから相当遅い部類に入ると思うのですね。だから経験の絶対数って少ないんですよ。しかし、まあそんな私に語らせてください(笑) 私はですね、考えてみるに、もちろんセックスも大好きなんですが、一番好きなのは抱擁とキスなのです、多分。 恋愛において一番幸せを感じるのは、彼女を抱きしめて、匂いをかいでいる時のような気がする。 そして、セックスにおいては、射精しなくても満足感を得られると思っています。私は酒飲みなので、セックスする時は酔っている

    愛のないセックス、セックスのない愛 : 旧・他人の不幸は蜜の味
  • 考えるために書いた文章と考えた結果を書いた文章(form 某所) - 明日は明日の風が吹く

    haruji
    haruji 2006/01/13
    何故書くのか
  • aesthetica sive critica - どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?

    以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。 もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか? この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。 それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなか

    aesthetica sive critica - どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?
  • 繊細だった、あの頃を - CONCORDE

    思い返すときが必要なのかもしれません。 ・・・おもいっきり前向きな記事を目にすると「絶対にあのようには考えられない(そしてウソでも書けない)自分」に落ち込んだりして。 さて。 さまざまなことを乗り越えてつよく--あるいは麻痺なのかもしれない--なってしまうと、たいてい、乗り越えられずにいた頃の気持ちを忘れるものなので。 コツだなんだとアドバイスをしてみたところで乗り越えられるかどうかは人がなんというかヒラメキみたいなものを体得するしかない、というのはたぶん実技系科目に限らない真実で、 だから乗り越えられた人には乗り越えられない人の気持ちが分からないみたいだし、 乗り越えられなかった人には乗り越えられた人の気持ちは分からない、 そんなものだとちいさな頃に身に沁みて感じたわけですが。 まぁ、ネットワークコミュニケーションにおいては「やればできる」という命題が成立すると仮定しても、「まだ弱くて

    繊細だった、あの頃を - CONCORDE
    haruji
    haruji 2006/01/13