「The Facts」広告で有名な「史実を世界に発信する会」の茂木さんが、AAS(アジア学会)の日本研究者の名簿を入手したらしくて、ニューズレターみたいなのが定期的に届いています。そして、それはそのまま日本の右派・歴史修正主義者のサンプルとして研究対象になっていますw まあ近現代史以外の専門の人にも届いているので、大半の人にとってはただの迷惑でしかないんですが。
根本的に勘違いをしています。制作会社には基本的に原画を二次使用する権利はありません。正確には一次使用後の「原画を保有する権利」は通常は製作者(委員会含む)にありますが、製作者と言えど作品製作の際の契約によって二次、三次使用に関しては別途の契約が必要で、作品の原画集出版に漕ぎ着けても原画集が売れなければ赤字になるので、よほどの話題作でなければ原画集を出して貰えないケースの方が多い事は、原画集が出る作品の数の少なさを見れば解るでしょう。で、以前にも書きましたが、二次使用の予定も無い原画を保管するのは維持費がかかるだけなので、殆どの場合は制作会社に(権利は関係無く)返却します。制作会社はアニメーターの人達が「買い取り」(著作者人格権以外の著作権を全て手放すので、後に作品がどれだけヒットしてもソフトが売れても一円も還元されない)で、原画単価以上のパフォーマンスを発揮してくれているのは解っているので
最初に押井守『トーキングヘッド』から次の台詞を引用します。 「語られた映画とは、実は常に映画の記憶のことでしかない。指し示すことはおろか引用すらできず、語ろうとするときには提示することも不可能で、しかも他者との共有的体験すらない個的な経験。それが、映画を見るという行為の実相だ。人は自分が見たものを言葉で表すことはできない。『見るということ』と『見たことを言葉で表すということ』の間には結局なんの関係もないんだ。『映画を見ること』『見たこと』『見た映画について語ること』そして『映画を見ることについて語ること』……これらの行為の間にはいかなる共通項も存在しないし……複数の人間の間においてはもちろん、同一の個人によっても、一本の映画が同じ体験として我々の前に立ち上がることは、テキストとしてのフィルムが単一の存在であるという幻想を前提としてしかありえない……そう、ある映画を正確に語ることが可能な場所
科学哲学者の存在意義についてそのような印象を持っておられるというのは残念です。 そもそも、科学哲学者の多くは、「ニセ科学」がどうとかいった話題とまったく関係ないことをテーマにして研究をしています。 関係することを研究テーマにしている場合でも、科学哲学者は「ニセ科学」に対してどう対処するべきかとか背信行為にたいしてどうするべきかとかといった規範的な問題について必ずしも特定の立場をとっているわけではありませんし、場合によっては「ニセ科学」と呼ばれるものも特に禁止しなくてもよいという立場をとることもあるでしょう。 さらに、「ニセ科学」は野放しにするべきではない、という規範にコミットしている場合でも、科学哲学者の得意分野は考え方を示すところまでであって、それを当てはめた結果どうなるかを判断するのはもっと個別の問題に知識を持っている方に任せた方が確実でしょう。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く