2021年11月26日、青く澄みきった奄美群島で“事件”は起きた。 とある小島付近の海上に1隻のイカダに乗った白いタンクトップ姿の男が大声で歌を歌い、オールを漕いでいた。男は奮闘するものの、高波のためイカダはほとんど前に進まない。30分後、それまでイカダと併走していた船が近づいていった。すると、これまでほとんど前に進まなかったイカダは波を掻き分けグングンと進みはじめた。船とイカダの間には、しっかりと張られた白いロープが見えていた ――。 ◆
2021年11月26日、青く澄みきった奄美群島で“事件”は起きた。 とある小島付近の海上に1隻のイカダに乗った白いタンクトップ姿の男が大声で歌を歌い、オールを漕いでいた。男は奮闘するものの、高波のためイカダはほとんど前に進まない。30分後、それまでイカダと併走していた船が近づいていった。すると、これまでほとんど前に進まなかったイカダは波を掻き分けグングンと進みはじめた。船とイカダの間には、しっかりと張られた白いロープが見えていた ――。 ◆
先日、選挙ドットコムという媒体の動画企画で論客の西田亮介さんとご一緒する機会があり、その席で「おい、一郎。情報通信白書読んだか。ついに新聞を読んでる10代がゼロになったぞ」と教えてもらったんですよ。 見物にいったら、やっぱり新聞を読んでいる10代はほぼゼロになっていました。 政治や社会問題の争点が遠い世界のことに これは大変なことだと思うんですよね。 総務省:情報通信白書令和2年版 https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r02/html/nd252510.html 何が大変だって、新聞やラジオに親しんできた60代から80代以上の世代と、これから日本社会を担う10代の若者たちの間では、当たり前のことですが「どの媒体から情報を得て、何に信頼を置くのか」がまったく異なるようになってしまうということですよ。 ある調査では、年代別
一度定着した物事をやめるのって、度胸要りますね。 感染症も減ってきたのでね、そろそろマスクをいつやめていいか、考える時期に差し掛かってきたと思うんですよ。ほら、堀江貴文氏もスタッフがノーマスクで餃子屋突撃して騒動起こしていたでしょ。ああいう感じの時期も過ぎて、やめどきってのがあるじゃないかって。 マスクをしなくてもいい線引きとは 感染者は当然ゼロにしたいし、また感染症が増えてきたらマスクはどうせ必須になる。でも東京の感染者が50人を切ったぞ、となれば、ワクチン接種がどんどこ進んでいるいま、どこまで感染で苦しむ方の数が減れば、マスクはもうしなくていいよっていう線引きをはっきりしたほうがいいんじゃないのと思うんです。もちろん、いったん減ったのでマスクしなくていいよ、ばんざーい、となった後でまた増えてきたので涙と鼻水で湿ったマスク生活に逆戻り、って流れも当然起き得るのでしょうが。
都議会議員の池川友一氏が委員会にて、ツーブロック禁止の理由を教育長に問うたところ、「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めている」と回答があった。ツーブロックを禁止することが理不尽であり,また「事件や事故に遭う」という理由が「意味不明」だということで、動画を掲載した池川氏のツイートは5.8万件のリツイート、14.3万件の「いいね」が付き、動画は647.7万件の再生を数えた(2021年4月30日時点)。 私は直感的には、「生徒を守る」という教育長の説明は、納得も理解もできない。私を含め多くの人たちは、その直感があるからこそ、ツーブロック禁止を嘲笑し、一蹴する。 ただ、今回はいちど、「教育長の説明がもし真剣な言い分だとしたら」と考えてみたい。つまり、「生徒を守る」ということが答弁上のこじつけではなく、本気でそう思っているとしたら、ということだ。
◆ 書いたものは今でも正しいと思っています ――田母神さんの論文「日本は侵略国家であったのか」は、アパホテルで知られるアパグループが主催する第1回「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀賞を受賞しました。現役自衛官、しかも空自のトップである航空幕僚長が〈我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である〉といった論を公にした衝撃はまさに「事件」と言うべきものでした。あれから10年、現在のお考えは、当時の論文の内容と変わりましたか、それとも変わりませんか。 田母神 全く変わっておりませんね。書いたものは今でも正しいと自分で思っています。 ――現代史家の秦郁彦さんのような、保守派の論客からも批判が集中した論文でした。たとえば、先の大戦において、蒋介石もアメリカもコミンテルン(共産党の国際組織)に動かされていたという箇所は、「陰謀論」であるとも批判されています。 田母神 そう批判する方がいるのは知っ
高畑さんが亡くなり、「お別れの会」を終えたいまも、気持ちが収まる気配がありません。徳間康快や氏家齊一郎さん、あるいは親父やお袋が死んだときも、葬儀を終えてしばらくしたら、心の整理はついたんです。ところが、今回はなかなか落ち着かない。気がつくと、すぐそこに高畑さんがいるんですよ。こんなことは生まれて初めてです。それだけ強烈な人だったということなんでしょうけど、正直なところ困っています。 お別れの会でも話しましたが、高畑さんと僕は最後の最後まで監督とプロデューサーでした。ある種の緊張関係がずっとあったんです。 鈴木敏夫(スタジオジブリ 代表取締役プロデューサー) ◆ ◆ ◆ 最初にじっくり話をしたのは、高畑さんが『じゃりン子チエ』を作っているときでした。当時の僕は『アニメージュ』の編集者。制作会社テレコムがあった高円寺の喫茶店でインタビューすることになりました。席に着くやいなや、高畑さんは先制
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