雨と雪について 雨と雪は、どちらも成長するにつれて「狼」と「人」のあいだで苦悩する。だが、その結末はきわめて対照的である。雨は「狼」として動物たちに融け込み、雪は「人」として学校に慣れ親しんでいった。この対比は単なるおとぎ話ではなく、もう少し広い視点で捉えなければならない。彼らの物語は、それぞれ「母」である花と「父」である狼男の人生を追体験したと言えるのだ。どういうことか。 まずは雨を見ていこう。雨は、森の主であるキツネの死期が近づくことで、代わりに弟子の自分が森を束ねなければならないと感じ始める。守るべきもののために今の世界を去っていく彼の姿は、実はかつての「母」と同じである。花もまた、雨と雪が自由に育つように都会を離れた人物だ。 では、雪はどうだったか。雪は、転校生の草平に自分が狼人間であることを明かし、ひとつの通過儀礼を果たす。カミングアウトを通して異性との関係を取り結ぶ、という点に
真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数) 誰でも自意識は大なり小なりあって、自己評価や、他人の目に自分がどう映っているかは気になるものだ。そして、その自意識に溺れて周囲との距離感が冷静につかめなくなったり、他人からの評価とのバランスがうまくつりあわないとき、めんどくさいことになりがちなのが文化系女子だと思う。 クラスや会社の同僚たちが、とても退屈な人間に見える。自分は映画や音楽や本をどんどん開拓して、豊かな感受性を育んでいるのに、書店で山積みになっている自己啓発本を読んで「気づき」とか言いだしたり、凡庸な歌詞の日本語ラップをカッコイイと思っていたりする周囲の人々。話の合う恋人ができなくて「こういう人たちって合コンでいくらでも相手見つけられるんだよね」と、悔しまぎれに同類な友人と話したことがあった。趣味の分母が大きいから、「ミスチル好きなんですよ
なのに、帰宅してテレビ点けたらちょうど嫌いなところ、見なきゃいいのに見てしまった。 改めて嫌いだわ、と再確認。 雫が窓を開けたら階下に聖司登場、まではいい。我慢する。好きなシーンもある。ネコとか。 でも、雫が下に降りて、2人の会話が始まってからが、すっごくイライラする。 私、聖司みたいな男、好きになれんわ。 http://www.geocities.jp/hibohs/m_serifu.html 文字で読んだらはっきりわかる。 聖司って、さわやかに悪気なく常に一方通行なんだよ。 雫からの問いかけや言葉を真芯で捉えて答えてる場面がほとんどない。 例えば、 雫「クレモーナはどうだった?」 聖司「見ると聞くとは大違いさ。でもオレはやるよ。」 これ、どう=如何と様子を尋ねているから、普通なら「大きな街でした」とか「楽しかったです」とか、ある程度具体性を持った答えが出てくるはずなのに、 「クレモーナ
『レ・ミゼラブル百六景』という解説書を書いていることもあって、たぶん、私は日本ではヴィクトル・ユゴーのこの傑作について一番よく知っている人間の一人だろう。だから、どんなによく出来た映画を見ても必然的に点が辛くなるのだが、舞台のヒット・ミュージカルを『王様のスピーチ』のトム・フーパー監督が映画化したこの作品だけは文句のつけようがなかった。それどころか、ラスト・シーンでは思わず涙がこぼれてきて、隣席の妻から「あなた泣いているの?」と驚かれた。もちろん、妻も涙で目を赤くしていた。 では、なぜ、感動しないはずの私まで泣いたのかといえば、それは、まず第一に、歌というものの圧倒的な力だろう。ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ、アマンダ・セイフライド、サマンサ・パークスといった名優たちが吹き替えなしで熱唱するヒット・ナンバーは私のようなスレッカラシの心も激しく揺さぶるのだ。とくに、
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