2017年2月8日のブックマーク (2件)

  • 史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

    天正10年(1582年)6月2日は能寺の変が起きた日。 このとき死に追い込まれた織田信長は一体どんな人物だったのか? 史実ではいかなる記録が残されているのか? かつてのフィクション作品では魔王のごとく描かれることも多かったが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』がそうであったように、以前と比べてその評価は変わりつつある。 例えば那古屋城(なごやじょう)生まれとされていたのが、現在では勝幡城(しょばたじょう)だと分析されたり。 「鉄砲の三段撃ち」など存在していないとされたり。 あるいは朝廷に対しても「普通に保護してるじゃん……」という一面がクローズアップされたり。 今まで描かれがちだった【とにかく怖い信長像一辺倒】ではなくなっきている。 では、信長の生涯とはいかなるものだったのか? まず5段階に分けてザックリまとめるとこうなる。 ①尾張時代 1552-1560年 ②美濃へ進出 1561年-

    史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?
    hayatototon
    hayatototon 2017/02/08
    編集部内で数ヶ月コツコツと書き上げましたー!皆さまからの追記もお待ち申し上げております!
  • 信長、「見上げられる存在」意識か…岩削り居城 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    戦国武将の織田信長が1563年に初めて築いた愛知県小牧市の小牧山城跡で、山肌の岩盤を削って造った壁(高さ最大約5・5メートル、長さ約23メートル)が出土したと、同市教育委員会が7日発表した。 市教委は「信長は最初から壮大で堅固な城郭のプランを持っていたことがうかがえる」としている。 市教委によると、この壁は主郭(丸)のすぐ下の登城ルート(大手道)から出土。堆積岩でできた岩盤を削って大手道を造成し、壁面の上部には石垣を積んでいた。当時としては例のない難工事といい、市教委は「家臣や領民に見上げられる存在になろうとしたことが、巨大な石の壁の上に居城を置いた理由の一つではないか」と分析している。 小牧山城は山頂の主郭が2~3段の石垣で囲まれていたことがわかっており、今回の発見で、石造りの部分は、より大規模に及んでいたことが判明した。

    信長、「見上げられる存在」意識か…岩削り居城 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
    hayatototon
    hayatototon 2017/02/08
    信長の全生涯を3万字でまとめました! http://bushoojapan.com/scandal/2017/02/08/77726