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2024年5月7日のブックマーク (3件)

  • 【特集】 PC-9821はゲーミングPCの夢を見るか? 全力で今風に改造してみた

    【特集】 PC-9821はゲーミングPCの夢を見るか? 全力で今風に改造してみた
    hdkINO33
    hdkINO33 2024/05/07
  • 一茶の句は反例にならない。

    anond:20240506174540 に追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。 meganeya3 短歌の考えは知らんが増田俳句の考えとして「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」はどうなの? 私の短歌・俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。 この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人の描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。 それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる この歌は一茶の句と比べると写実的で情念の無い描写に見

    一茶の句は反例にならない。
    hdkINO33
    hdkINO33 2024/05/07
  • 短歌を詠むほど俳句は作れなくなる

    https://anond.hatelabo.jp/20240506061423 短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。 多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。 なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。 短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうと

    短歌を詠むほど俳句は作れなくなる
    hdkINO33
    hdkINO33 2024/05/07