といふタイトルの小林秀雄のエッセイがある。萩原朔太郎の同名の文章について批判的に論じたものだが、なかにずいぶん気になる一節が見える。ちよつと引用してみたい。 原文の意味はとつくにわかつてゐるが、それがなかなか思ふ様に日本語の文章にならないといふ場合がある。その場合、意味はとつくに解つてゐると思ふ時、僕等は既に決して原文通りに考へてゐない。迅速な翻訳の粗描を作つてゐるのだ。 (小林秀雄「日本語の不自由さ」) どうだらうか。意表をついてはゐないだらうか。意味がわかつてゐるのに日本語にならない。それはまさに自分が「原文通りに考へて」ゐるからだ。日本語といふものにたやすく置き換へることのできない原文そのものを捉へてゐるからだ。ふつうはさう考へる。といふよりも、考へたくなる。そこを、彼、小林秀雄は、ぐつ、とこらへてゐる。禁欲的なのである。このくだりをつかまへて、小林秀雄の語学力の限界だとか、時代の制