⇒【天声人語】2005年09月12日(月曜日)付 大学入試に使ってもらひたし。 不悉
よくわからん。 階層差があるないとか言われているが、あるように思う。 上流というか品のある家の子というのは目立たないものだ。 若者論などはたいてい外すのが相場。テーマにするだけ馬鹿の証明でもある。でも、はてななんぞの若い兄さんねえさんたちはそれでもある種のエリート層なんだろなとは思う。 沖縄で暮らしていたころ、ときたま、東京にステイして思ったのは、コンビニとかファーストフード店員の若者のぞんざいというか情味のないことだった。沖縄だと、全部がそうだとはいわないが、若い子たちには人間的ななにかが生き生きと溢れ出ることがあり、そのある感性みたいのを知ると、ある種のナイチャーははまるのだろうとは思う。 東京に戻って三年にならんとしている。三年後生きているものだなと思うし、歳もとったなと思う。思うことはみな無駄だとも思う以下略。 そして、コンビニの子とかファーストフード店の子を今どう思うかというと、
ので意識と存在(無意識)に軋轢がおきて、そこで意志のエネルギーは摩滅してしまう。 高校生のとき、あるとき、ふと悟って、試験がそれほど苦しくなくなったのだが、こういうことがわかった…。 試験の結果というのは、自分の能力というか自分の勉強の結果なのであって、仮に、ここに自分とまったく同じアンドロイドがいて、それに能力があれば、それなりの結果を出す。 つまり、試験の結果というのは、メカニカルなリダクションでしかなく、意識の努力なりは、そのメカニズムには雑音でしかない。 「がんばろう!」とか「根性!」とかとかとか心理的なテンションとか姑息な手法でやる気を盛り上げても、結果は結果だし、その結果に至るまではメカニズムでしかない。 最適なアンドロイドがいたら、甲子園には必勝する。物語は存在しない。勝つか負けるかはただ、能力の一次的な関数でしかない。 努力というのは、だから、一番、無駄なことなのだが、そう
これ⇒はてなブックマーク - ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる - シリコンバレーからの手紙・特別篇105 と間接リンク。 もちろん、表層的に理解はできるので、現代国語の試験だったら、けっこう点は取れるかも。 で、反論とかあるわけでもない。 ただ、なんかわからない。 ちょこちょこと疑問があって、ま、それはたいしたことないっしょ、と思いつつ、読み進むに進めなくなる。 たとえば、Google。 ざっくばらんにいうと、Googleってうざいんですよね。それがなくちゃやっていけないのに、うざい、と。簡単な例だと、アフィリエイトがけっこう既存の企業の審判性そのまま。つまり、Googleってぜんぶがぜんぶそうだとはいわないけど、けっこう資本主義ハーネスなんですよね。なんか、それって違うんでね、とか思うのだけど。 この問題パティキュラに言えば、アフィリエイトしなきゃいいんじゃないの、と、それは
昨日のうだうだだが、それからちと、生活世界(Lebenswelt)の扱いが杜撰すぎたかな、と。 所与の世界の意味性というのは、直接的には、欲望とはつながらないし、過去の想起が欲望と関連した感情によって惹起されるものとはいえ、それが生活世界(Lebenswelt)の根底にあるものとは違うだろう。 このあたり、大森(大森荘蔵)のいう風情(ふうじょう)とも関係するかもしれない。 生活世界(Lebenswelt)は、とりあえず、情的世界と言ってもいいし、世界とは人間にとって情でしかない。このあたりも大森用語っぽいが、「天地有情」である。 生活世界(Lebenswelt)というのは、一つには、天地有情と言っていいし、他方ではゲームでもあるだろう。ヴィトゲンシュタインの言語のゲーム性とは、多くの哲学者が言語側に基軸を置いているが、そうではなく、それがプレイされる世界の側が重要だ。その意味で、ヴィトゲン
現在の天地有情の欲望刺激(仮にそう言うとする)によって惹起される、過去の欲望との調和なのではないか? 違うかな。 現在の欲望の持つ、この被投企性というのはなんと言っていいのだろう。このあたり、ヴィトゲンシュタインもフッサールもなんも言ってないような気もしないではない。 いやフッサールは言っているか? あるいは竹田(青嗣)は言っていたか。ようするに、天地有情にあって、己の欲望を告知されることで己が存在するという存在構造なのだ。サルトルとかの投企性とかどうでもいいよ、と。むしろ、ポンティなどはそう考えていかも。 繰り返すが、「おぉっ、ナイスバデー、やりてぇ」という「やりたいのは誰?」「はーい、ボク」というふうに自我は惹起する。もちろん、ナイスバデーの知覚それ自体にその欲望性は内包されていて時間的な因果的な連鎖ではない。 というところで、ブレーク。
なので後回し。 また、これか。 ⇒極東ブログ「窪田弘被告という人生もまた良し」 山本は心労と見ている⇒切込隊長武浪愚(撫弄倶) 〜俺様王国: 西武鉄道問題、大企業が滅ぶとき 今朝は、主要な問題である2プラス2をどこも扱っていなかった。その時点で、今日の社説は全パスしたいというか、読む気が失せた。 特に産経…orz ま、それはそうだが、今やるべきことか。 朝日新聞か。 今日この社説を書く産経は、おばか。 三面記事のように思う。 この問題は重要だが…それだけ難しい。 突き詰めれば、国がトップダウンで進める国総法体制は成熟経済、地方分権の下で時代遅れだということだ。 そう言ったら、おわり。 「おーい、外信、なんか書け」だったのか。たるい。 パス。お説教と社説は違うよ。 そういうスタンスじゃなくて、きっちり、強く民主党を支持したらどうか。民主党のこの問題のインテリジェンスは悪くはないよ。 あほくさ
ウェーバーだの古代ユダヤ教だの聖書だのとか言うと、誤解されまくり、だろうな。ま、それもどうでもいいのだが。 アラビアンナイトはどうか? マドリュース版、バートン版で全部読むっていう人はいるのだろうか? あれは、面白い。っていうか、思考の変化を要求させられる。 なんか、通じないこと書いているよな、俺。あはは。 と言えば、冗談みたいだが、普通百回くらいは読む。そんなに変なことじゃない。 理解するなら、十回でいいし。解説付けるなら五十回でいい。 じゃ、なぜ、百回読むのかというと、海馬までウェーバーになるためですよ。この世界がウェーバーのように見えるようになるまで。もー、悟りの境地ですな…って宗教社会学の全体を百回読んでいるうちに人生はおしまい。でも、ハンチントンなんか読むよりましかもよ。 大塚学のある内は学生はプロ倫を百回くらい読んだもの。大塚先生の後光ですな。 で、問題は、あそこから、古代ユダ
5時前に起きて、ざっとニュースを見たら、ノートルダム聖堂が炎上していた。BBCのリアルタイム報道を見た。けっこう深刻だ。 一昨日、次男が聖堂を見ていたので、それから数日でこんなことになるのかと思った。 テロではないらしい。 重要な部分、貴重品は保護されようなので、いずれ復元はされるだろう。
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