かつて東京・小金井に義塾のキャンパスがあった。 理工学部がまだ工学部だった頃、そして矢上キャンパスが完成する以前のことである。高度成長期にさしかかる時代に、その小金井キャンパスでは、技術立国日本の未来を担うため、塾生たちが研究に打ち込んでいた。 (小金井キャンパス正門) 太平洋戦争が終結する直前の1945(昭和20)年4月、空襲によって日吉キャンパスでは工学部校舎など約8割が焼失した。翌5月には三田と四谷(現 信濃町)両キャンパスも焼夷弾による甚大な被害を受けた。 同年8月15日の終戦の後、予科と各学部は、川崎の陸軍施設跡に設けた登戸仮校舎や、麻布の夜間学校の校舎を日中だけ借りた三ノ橋仮校舎などに分散して再出発した。 中でも校舎の確保で苦しんだのが、工学部であった。戦争は終わったものの、日吉キャンパスの焼け残った校舎や寄宿舎は、9月に米軍に接収されてしまったのである。そのため工学部は、10