過度に強気な言い切りなのか、実際にそうなのかわからないが「こう考えられるので落とす」と賛同する人が多かった。
◆◆◆ 広告会社勤務から「地獄の漫画家生活」に突入 ――1991年に「月刊少年ガンガン」創刊号で漫画家デビュー。いちばん忙しかったのはいつ頃ですか? 柴田亜美さん(以下、柴田) デビュー翌年に『パプワくん』がアニメ化されて、その数年後には「月刊少年ジャンプ」や「週刊ファミ通」での連載が始まって……。漫画家生活2〜3年目で、もう地獄でしたね。 当時の「ガンガン」って、エニックス(現スクウェア・エニックス)が初めて作った雑誌で、私はまだリクルートの子会社でイラストを描いていた時代。 実は雑誌のスタッフ全員が漫画1年生だったから、業界のルールや適切な仕事量もわからなかったんです(笑)。私も実践でしかスキルを上げられないと思っていたし、来た仕事は断るべきではないと思って働いていました。 月産150P。当時の柴田亜美先生の忙しさがわかる4コマ(漫画:柴田亜美公式Twitterより) ――当時だと、リ
とんでもない怒号を聞いたことがある。 スポーツ紙の駆け出し記者として中日を担当していたときのことだった。 たしかオープン戦、岐阜・多治見市営球場での試合だったと記憶する。中日が相手チームにリードを許して、試合終盤に差し掛かったときだった。取材のために一塁側のベンチ裏に行くと、その声が響き渡ってきた。 「オラッ、もっとインコースいかんか! 頭にいったれ!」 声の主は当時の中日監督だった星野仙一さんである。 聞き耳を立てていると、さらに言葉は過激になっていく。 「(頭に)いくぞ、いくぞ!」 「頭、かち割ったれ!」 そして投手はインコースの厳しいところにグイグイ投げ込んでいく。 こんな野次は令和の時代では完全にアウトだろう。 でも平成になったばかりで、まだまだ昭和の空気が残っていた当時は、ベンチからこんなえげつない野次が、平気で相手打者に飛んでいく時代だった。 村上への死球でヤクルト&DeNAベ
MAEDA Takahiro @maesan 編集者/インタビュアー/ライター●新刊出たのよ、「死なれちゃったあとで」というやつ●ポートフォリオ foriio.com/maedatakahiro●マンバ通信https://t.co/xkn2nLnSvr note.com/maesan MAEDA Takahiro @maesan NHKで歌舞伎町のメンズコンカフェを取り上げていたが、怖かった。風営法に引っかからないため、未成年でも入店可能に。で、中学生や高校生が推し目当てで通って、1万とか2万とか使う。LINEで「今月ランクが落ちそう」と連絡が来ると「求められている!」と感じて店に行く。金がない子はパパ活へ。 2022-09-17 11:46:11 MAEDA Takahiro @maesan 10代でちょっと道を外れるのはよくあることだけど、リカバリー可能なものであってほしい。コンカフェ
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