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2016年12月5日のブックマーク (3件)

  • 「キャラクターが物語の駒になっている」という批判を時々見ることがあっ..

    「キャラクターが物語の駒になっている」という批判を時々見ることがあって、 実際自分も色々な作品に触れる中でしばしばキャラクターの性格と行動の乖離に違和感を覚えることがあるのだが、 自分の場合「何故その性格設定のキャラクターにこの行動を取らせた?」ではなく、「何故この行動を取らせるキャラクターをその性格設定にした?」となることが多い。 キャラクター基準ではなくイベント基準というか、シナリオ進行基準というか、テーマ基準というか。 ぶっちゃけた話、早い段階で作品の言いたいことというか、作品を通して制作側のやりたいこと(必ずしも物語の終着点という訳ではなく)がはっきり見えてくるような作品は、 多少作中でキャラクターの行動に首をかしげることがあっても大目に見てしまう。なんかこいつ普段からは考えられないようなヘマやらかしてるけど多分作品的には意味があるんだろうと思ってしまうというか。 実際そういうぼん

    「キャラクターが物語の駒になっている」という批判を時々見ることがあっ..
    hiruneya
    hiruneya 2016/12/05
    適当なことしか言えんけど、キャラクターとキャラ、物語とストーリーの違いみたいなことかしら。キャラも立っててストーリーもしっかりあるのに心底どうでもいい作品、みたいな
  • ※この世界の片隅にのネタバレ含みます 元増田とは少し考え方が違います..

    ※この世界の片隅にのネタバレ含みます 元増田とは少し考え方が違いますが、選ばれなかった過去という話を明確に打ち出しているので、「あり得たはずのもうひとつの世界」というのは重要な要素だと思います。 原爆で母を失ったヨーコは母の左手を握っていたために助かりましたが、すずさんが「晴美ちゃんのことを左手で引いていたら…」と後悔する際に出てくる映像と重ねることができます。 終盤にあの凄惨な親子のシーンを唐突に挿入する演出も、かなり意図的なものと思います。 もしすずさんが左手で手をつないでいたなら、晴美は助かっていたのかもしれません。 分岐ということで考えるならば、北條周作の求婚以前に水原哲とすずさんが結ばれていたら娘が産まれ、もしかしたら親子は広島で被害を受けたかもしれません。 ヨーコはそうした「ありえたはずのもうひとつの世界」の住人のようにも思えます。 そして、おりんさんという人も、すず=りんとい

    ※この世界の片隅にのネタバレ含みます 元増田とは少し考え方が違います..
  • この無数に重なり合う世界の片隅に。

    終盤唐突に差し挟まれる、被爆したとおぼしき、右手がずたずたになって、左手を少女と繋いで焼け野原を歩く女性。 これは、すずだ、と。 これは、当の、すずだ。 すずさんは、広島で、子供をかばって、被爆したのだ。 普通に、当然のように、そう思った。 始めに言っておくんだけど、多分こういう解釈はあちこちで出てて、多分「原作読めば分かるけど、それはこうだよ」って否定されてると思う。実際、原作を読めばそれだけで氷解する、阿呆みたいな、とんちんかんな、暴走妄想なのだと思う。 別にそれでいい。 ただの、原作未読で、映画も一回しか見てない僕のモウソウだ。「トトロで、サツキとメイは実は死んでました」のたぐいの話だ。 ただ、僕には、そう見えてしまった、ということをメモっておきたかった。 終盤に唐突に現れる、焼け野原を歩く女性は、すずだ、と思った。 当のすず。 現実のすず。 今、そうであるすず。 じゃあ今までの

    この無数に重なり合う世界の片隅に。