■ 閉鎖 「サイトバレ」っつーんですか? このサイトは誰にバレても痛くも痒くもないんですが、バレちゃまずい事書きまくってる人もいますわな。んで、職場バレ、学校バレのせいで閉鎖するサイトがたまにあります。こんな事やあんな事書いていたのがバレるとまずい。だから慌ててログも消去。その気になればインターネットアーカイブとかGoogleのキャッシュでサルベージも可能ですけど、職場や学校の人はそこまでしないでしょうから、ログ全消去してサイトたたんだり移転するのは実社会でのダメージ軽減に有効な手段であるわけです。うん、仕方ない。これはちょっと文句言えない。んで、問題はこっち。役割を終えたモチベーションがさがった学校(仕事)が忙しくて更新できない彼女(彼氏)にフラれたこんな理由でファイル全削除してサイト閉鎖されるとたまらんのですわ。別に消す必要ないですやん。ファイルそのままでほったらかしときゃええんちゃう
■ 休止についてのアンケート結果発表 お待たせしました。スーパーコンピュータ「脳」による自動集計が終了しました。今回、グラフを画像にしてみたので冷麺携帯版からご覧の方は若干わけわからんと思います。悪しからず。有効回答数は82でした。ニュースサイトで取り上げてくださったところがいくつかサイトで回答してくれていたのですが、それはカウントしていません。悪しからず。 続き まずは質問1「どれくらいの期間サイトの更新がなかったら「そのサイトは休止している」とみなされますか?」から。 最初に謝らねばならないのですが、アンケート回答者のほとんどの方から「休止とみなす更新停止期間はそのサイトのジャンルや元々の更新頻度によって違う」というご意見をいただきました。ごもっともです。そういう前提を無視して敢えて一緒くたに考えるならまあ大体これくらいの期間じゃないかな、とフォロー気味に答えてくださった数字を元にし
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 竹久夢二が、愛人の笠井彦乃と逢瀬を重ねるため、人目につかないようひそかに下落合で暮らしていたことは、ほとんど知られていない。日本橋の西河岸延命地蔵Click!の裏に開店し、離婚の話し合いが進む妻・たまきに経営をまかせていた「港屋絵草紙店」を飛び出して、彦乃との本格的な同棲生活が始められるよう、夢二はまず目白駅の外側、下落合に仮住まいを探した。そして、この仮住まいで夢二と彦乃は結ばれている。 1915年(大正4)の春、夢二が借りた下落合の家がどのあたりだったのか、はっきりとはわからない。下落合に住んだ夢二は、わずらわしい外界とのコミュニケーションを断つかのように、笠井彦乃との甘い生活に没入していった。だから、手紙
人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高山族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・清国・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。 博覧会 - 帝国主義の視線 -[編集] 19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 第二文化村Click!南端にも住んでいた武者小路実篤の著作に、『思い出の人々』(講談社/1966年)がある。武者小路が『白樺』を通じて初めて岸田劉生Click!に会ったときから、すでに岸田は誰かに対して憤慨していた様子が記録されている。帝劇の観劇中にもかかわらず、ある音楽家に腹を立てて簿記棒(記帳するとき使用する60cmほどの太くて重たい線引き棒)を手に、「なぐってやる!」と探しまわっていたようだ。どうやら、「岸田は気がおかしい」と言われたことでキレたらしい。この「クモザル」とあだ名された音楽家が、その後、無事だったかどうかはさだかでない。 岸田は生っ粋の江戸っ子だから、ケンカっぱやいのは仕方がないとしても、す
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 1945年(昭和20)5月26日、下落合・目白一帯はただならぬ興奮と緊張に包まれていた。前日の25日深夜から始まった2回目の山手爆撃で、高射砲陣地の対空砲火が2機のB29を撃墜したからだ。1機は池袋上空で被弾し、高田南町二丁目(学習院下)にあった飛行機のマグネットを製造する「国産電機」の工場敷地へ墜落。ちょうど、いまの大正セントラルテニスクラブと大正製薬がある高田3丁目あたりだ。もう1機は新宿上空で被弾し、麹町一丁目に墜落している。その瞬間を捉えたのが、上の写真だ。 B29による絨毯爆撃は、高度8,000m前後から焼夷弾を投下し、目標地域の周辺が炎上し対空砲火が沈黙すると低空飛行に移り、より中心地帯への焼夷弾投
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 最近、ラッシュ時に走る「女性専用車両」が目につく。地下鉄ではあまり目にしないので、地上線に多いようだ。あるいは、導入されている区間や時間帯にもよるのだろうか? チカン対策あるいは混雑時の危険防止なのだろうが、わたしは地下鉄を利用することが日常的に多いので、朝たまたま地上線に乗ったりするとめずらしくて気がつく。きょうは女性の乗客がやたら多いな・・・と思っていると、知らずに女性車両のホーム位置へ並んでいたりする。 「女性専用車」の発想は、別に新しいものではない。東京では、明治期の鉄道から導入されていたしくみだ。早くから取り入れられたのは、「甲武線電車」すなわち現在のJR中央線だった。しかも、当時は車両の一部を女性専
文化村拾遺 ●さまよえる「不動谷」。 ●世代で異なる「バッケが原」の位置。 ●下落合駅も大きく西へ・・・。 ●「戦災後の文化村」宮本恒平の視線。 ●待望の新装なった落合第一小学校。 ●安倍能成から谷崎潤一郎へ。 ●箱根土地(株)建築部の仕事。 ●目白駅発・文化村ゆきダット乗合自動車。 ●四ノ坂ではなく五ノ坂の旧・林芙美子邸。 ●当時から多かった文化村界隈の医院。 ●文化村ベースボール大会・1943年。 ●文化村の改正道路(山手通り)開通。 ●文化村からは富士山がよく見えた。 ●神田川流域の地名に残った「バッケ」。 ●戦時下の目白文化村。 ●逍遥先生、カネ貸してくれ。 ●写真で見る箱根土地本社。 ●水道塔のある風景。 ●「柿の木は残った」・・・か? ●文化村に建てられた家々の意匠。 ●空き地を見ると不安になる。 ●限りなく細分化されていく。 ●旧・下落合駅とJR国立駅は姉妹関係。 ●鉄剣(鉄
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 今週は、なぜか「怒」シリーズになっちゃうな・・・。いったいいつから日本橋が「ニホムバシ」で、小伝馬町は「コデムマチョウ」になったんだろう? 最初はスギ花粉の影響で目がくもり、ローマ字が二重に見えているのかと思った。でも、「n」ではなく「m」なのだ。Nihonbashiではなく「Nihombashi」だし、Kodenmachõではなく「Kodemmachõ」なのだ。冗談じゃねえや、わたしのふるさとの地名をローマ字表記とはいえ、勝手に変えるな。日本橋は、400年来ニホンバシで「ニホムバシ」であった試しなんぞ一度だってねえや。外国人(アジア人では決してなく特に欧米人)が発音しにくいから、地名の音やローマ字表記を勝手に
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 いつまでも馴染めない山手言葉が、ほんの少しだが残っている。一人称を表すときにつかう、「僕(ぼく)」だ。その対語としての、二人称の「君(きみ)」というのにも馴染めない。その昔、大学を卒業するころだったろうか、「僕」という言葉をつかっていて親に叱られた記憶がある。「いつまで子供じみた言葉をつかってんだ?」・・・というわけだ。 東京弁の町言葉では、「僕」というのは原則的に幼児語、つまりガキの言葉なのだ。 「いくつにおなりなの、僕ちゃん?」 「僕、6つになったんだ」 ・・・という具合だ。通常は、一人前の大人になったら「わたし」「あたし」/「あなた」、あるいは「おれ」/「おまえ」であって、「ぼく」/「きみ」という言い方は
1 名前:NAME OVER:2005/04/12(火) 13:38:28 ID:DprvWj8X http://teko.sakura.ne.jp/protect/protect.html こんなの他にないの? >>1のような強制的なのは覚えが無い。 タイムエンパイアは町の人の会話がすべて 「コピーしただろう」に変わって進めなくなるな。 あとZAVASがシールを使ったプロテクトだったな。 ファルガナ地方クリアくらいで 「もしコピーだったら、相当先になってから進めなくなるよ。」 とか、やたらとコピーを警告してたのが笑えた。 たしかテスタメントもそんな感じだった覚えがある。 バショウハウス系は手口が同じだな。 4 名前:NAME OVER:2005/04/12(火) 14:46:29 ID:??? あっぱれ殿様もプロテクトかかってるな。 起動すると殿様がドアップで「コピーはいかんぞよ
徳島でUFOが墜落 2008-07-16-Wed CATEGORY: 軍事 1 名前: 奥托変馳(東京都)[] 投稿日:2008/07/16(水) 18:51:43.16 ID:doVjjUEf0 ?2BP(3001) 株主優待451 名前: 馬克西姆(埼玉県)[] 投稿日:2008/07/16(水) 18:44:34.63 ID:6QpN0qAl0 徳島で、飛行機が煙をあげて飛行しているらしい ソースはTV 誰か建てて 452 名前: 雪佛龍(アラバマ州)[] 投稿日:2008/07/16(水) 18:46:54.97 ID:zOw9qwE/0 UFOが墜落したのにお前らときたら? 453 名前: 莫比尓(埼玉県)[sage] 投稿日:2008/07/16(水) 18:49:40.16 ID:NvcQTlDq0 >>451 にっテロでやってた JALANA自衛隊じゃない って。 4 名
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 大正期にも、人気俳優や歌手を追っかける「パパラッチ」は存在していた。といっても、今日のように相手の承諾なしに追いかけまわし、プライバシーもヘッタクレもないような下品な取材はしていない。「カメラマンと記者が尾行しますから」と、あらかじめ本人に宣言し、都合のいい日を教えてもらい、つまり本人がいちばん追いかけられて「写真を撮ってもらいたいわぁ」という日を取材側に伝えるいわば“玄関取材”、今日の“しこみ”のような取材形式だった。だから、カメラマンの撮影にはいいポジションがあてがわれ、間違ってもピントがぶれてしまうような、みっともない写真は存在しない。このような有名人の「尾行写真」が、大正期の雑誌をにぎわしていた。 当時
昭和31年発行の東京23区の地図です。 現代との比較や、その場所の当時の写真を見ることができます。 [使い方]
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 1924年(大正13)から、下落合2118番地に住んでいた椿貞雄Click!は、翌1925年(大正14)の春陽会展に「落合風景」とみられる作品をいくつか出展している。その椿貞雄アトリエを訪問したか、あるいは近所で暮らしていたとみられる同郷の高瀬捷三Click!については、彼の『下落合風景』(1924年ごろ)とともにご紹介している。 1925年(大正14)3月に、上野公園竹之台陳列館で開催された春陽会第3回展に、椿貞雄は14点の作品を出展している。それらの作品には、下落合の風景を描いたとみられるいくつかのタイトルが読みとれるようだ。春陽会の出品作とは、『晴れたる秋』や『果実図』、『冬日小彩(1)』、『冬日小彩(2
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