新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 1927年(昭和2)7月29日、朝鮮から中国を経てシベリア鉄道で二度めのパリへと向かうために、佐伯祐三Click!と米子・弥智子の家族3人は下落合のアトリエをあとにした。途中、京城の親友で画家仲間の山田新一Click!の家へ立ち寄るのだが、そのとき一行は倍の6人になっていた。パリへと向かう佐伯一家には、ひとりの女の子が同行している。佐伯家の長女・杉邨(佐伯)文榮の娘で、パリで洋裁の勉強をしようと留学を考えた、のちにハーピストとなる杉邨ていだ。 京城の山田新一邸へ立ち寄った6人とは、佐伯一家の3人と杉邨てい、さらに見送りにきた佐伯祐三の兄・祐正と杉邨ていの父・章作だった。杉邨ていは、パリ14区のプールヴァール・デ
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 パリ郊外にあるクラマールの森の近くで、佐伯祐三Click!の家族3人が化け猫の夢を同時に見て飛び起き、深夜にもかかわらず洋画家・小島善太郎Click!が借りていた隣室へ、一家で避難したという「事件」があった。このエピソードは有名なのにもかかわらず、どの佐伯本にも詳細な内容はあまり取り上げられていない。荒唐無稽なバカバカしい話だということで、著作の信憑性や“権威”にも関わりかねないとして、あえて詳しく紹介されず避けられているのかもしれない。 でも、3人が同時に同じ夢を見るというのは、世の中にそう多くあることでもないし、もしそんな事例があれば新聞や雑誌の記事ネタにもなるのは、当時も現在もたいして変わりはない。事実、
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 『東京10000歩ウォーキング』シリーズ(明治書院)の編著者である籠谷典子氏より、ご丁寧な手紙をいただいた。尾崎翠の旧居跡について、ご自身でも検証・確認され訂正くださるとのこと、同シリーズが当初出版された牧野出版時代からの愛読者のわたしは、とってもうれしい。 ★ 1927年(昭和2)4月から翌1928年(昭和3)6月にかけ、尾崎翠Click!が暮らした上落合三輪850番地の2階家Click!の写真が手に入った。といっても、写っているのは1930年(昭和5)5月から入居していた林芙美子で、尾崎翠ではないのが残念だけれど、家の風情や部屋の様子はなんとかわかる。おそらく、1階に洋間の書斎(客間?)を備えた造りで、2階
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 わたしが15歳まですごした神奈川県の海っぺりでは、北条政子Click!の存在感がきわめて大きい。源頼朝よりも、地元でははるかに“有名人”かもしれない。湘南の中央に平塚という街があるが、政子さん(たぐい稀な存在なので、つい「さん」付けで呼んでしまうクセがある)が死去したとき、巨大な墓塚が築かれたのだけれど、もともと砂丘地帯だったために風化で平らになってしまい、それ以来「平塚」と呼ばれるようになった・・・などという、まことしやかな伝承がある。もちろん、江戸期あたりに作られた出来の悪い付会だろう。政子さんの伝承やエピソードは、学校の授業や資料にもたびたび登場した。それだけ彼女の存在感が神奈川の、ことに南部では大きいの
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 いつもナカムラさんが貴重な情報をお寄せくださる、画家・竹中英太郎の下落合暮らしについて、ちょっと書いてみたいと思う。ある出版社の編集者の方から、わざわざ竹中英太郎に関する資料をお送りいただいた。2006年に出版された、備仲臣道の『美は乱調にあり、生は無頼にあり~幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)だ。 竹中英太郎は、1923年(大正12)の関東大震災で大杉栄と伊藤野枝、そしてわずか6歳の橘宗一が憲兵隊に虐殺Click!されたのを知ると、当時暮らしていた熊本で激昂する。口の中を噛み切り、出血するほどの怒りだったようだ。竹中は、大杉たちを殺した権力へ報復するために、要人暗殺を決意し懐中に匕首を呑んで、同年の12月
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 竹久夢二が、愛人の笠井彦乃と逢瀬を重ねるため、人目につかないようひそかに下落合で暮らしていたことは、ほとんど知られていない。日本橋の西河岸延命地蔵Click!の裏に開店し、離婚の話し合いが進む妻・たまきに経営をまかせていた「港屋絵草紙店」を飛び出して、彦乃との本格的な同棲生活が始められるよう、夢二はまず目白駅の外側、下落合に仮住まいを探した。そして、この仮住まいで夢二と彦乃は結ばれている。 1915年(大正4)の春、夢二が借りた下落合の家がどのあたりだったのか、はっきりとはわからない。下落合に住んだ夢二は、わずらわしい外界とのコミュニケーションを断つかのように、笠井彦乃との甘い生活に没入していった。だから、手紙
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 第二文化村Click!南端にも住んでいた武者小路実篤の著作に、『思い出の人々』(講談社/1966年)がある。武者小路が『白樺』を通じて初めて岸田劉生Click!に会ったときから、すでに岸田は誰かに対して憤慨していた様子が記録されている。帝劇の観劇中にもかかわらず、ある音楽家に腹を立てて簿記棒(記帳するとき使用する60cmほどの太くて重たい線引き棒)を手に、「なぐってやる!」と探しまわっていたようだ。どうやら、「岸田は気がおかしい」と言われたことでキレたらしい。この「クモザル」とあだ名された音楽家が、その後、無事だったかどうかはさだかでない。 岸田は生っ粋の江戸っ子だから、ケンカっぱやいのは仕方がないとしても、す
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 1945年(昭和20)5月26日、下落合・目白一帯はただならぬ興奮と緊張に包まれていた。前日の25日深夜から始まった2回目の山手爆撃で、高射砲陣地の対空砲火が2機のB29を撃墜したからだ。1機は池袋上空で被弾し、高田南町二丁目(学習院下)にあった飛行機のマグネットを製造する「国産電機」の工場敷地へ墜落。ちょうど、いまの大正セントラルテニスクラブと大正製薬がある高田3丁目あたりだ。もう1機は新宿上空で被弾し、麹町一丁目に墜落している。その瞬間を捉えたのが、上の写真だ。 B29による絨毯爆撃は、高度8,000m前後から焼夷弾を投下し、目標地域の周辺が炎上し対空砲火が沈黙すると低空飛行に移り、より中心地帯への焼夷弾投
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 最近、ラッシュ時に走る「女性専用車両」が目につく。地下鉄ではあまり目にしないので、地上線に多いようだ。あるいは、導入されている区間や時間帯にもよるのだろうか? チカン対策あるいは混雑時の危険防止なのだろうが、わたしは地下鉄を利用することが日常的に多いので、朝たまたま地上線に乗ったりするとめずらしくて気がつく。きょうは女性の乗客がやたら多いな・・・と思っていると、知らずに女性車両のホーム位置へ並んでいたりする。 「女性専用車」の発想は、別に新しいものではない。東京では、明治期の鉄道から導入されていたしくみだ。早くから取り入れられたのは、「甲武線電車」すなわち現在のJR中央線だった。しかも、当時は車両の一部を女性専
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く