2013年に二度目のオリンピックが東京にやってくると決まったとき、僕はこれをきちんと批判したいと考えた。この二度目のオリンピックには一度目(1964年前のそれ)とは異なり、なんの必然性もコンセプトも存在しないように思えたからだ。1964年の東京オリンピックは敗戦からの復興を象徴することで国威発揚を狙うと同時に、高度成長へ向けた首都東京の大改造を前提としたインフラの整備を「爆速化」するための錦の御旗だった。首都高速道路も東海道新幹線も、オリンピックに合わせて急速に整備されたものだ。この都市改造と国土開発自体の評価はさておき、少なくとも1964年の大会には議論に値する明確な意図が、テーマがあった。 しかし、2020年のそれには「何も」ない。斜陽の日本に明るい話題が欲しいといった類の森喜朗的なぼんやりとした精神論と、関係企業や団体のビジネスチャンスへの即物的な期待があっただけだ。そしてそれ以前に
![どうやら本当に開催されてしまう東京オリンピックについて、いち市民ランナーの思うこと|宇野常寛](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/72539a4cb5b875cb071916a54af2b1e2af3aec7c/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fassets.st-note.com%2Fproduction%2Fuploads%2Fimages%2F56079421%2Frectangle_large_type_2_121b6fe8601807a8b2a958de8f3c202c.jpg%3Ffit%3Dbounds%26quality%3D85%26width%3D1280)