タグ

2009年6月11日のブックマーク (2件)

  • ハビトゥス

    ハビトゥス habitus(25) ハビトゥスはブルデュー独特の用語であり、ブルデュー社会学の最も重要な概念であ る。「持つ」を意味するhabereの派生語で、来は外的特徴や顔色、態度、性格、性向などを意味するラテン語であが、ブルデューはこれを「社会的に獲得された性向の総体」の意味で用い、人間が社会化されるメカニズムを巧みに説明する概念である。社会は、一方に書籍や制度などのように物象化した社会と、他方にハビトゥスという形で身体化された社会の二つの側面を持っている。 家庭において、幼児が親にあることを教えられると、幼児は教えられたことを学ぶと同時に学び方そのものを身体化させる。この学び方は次に学ぶ内容を、その質によって受け入れるか拒否するかを決定づける性向となる。このように家庭教育において行為者に発生させる性向を、第一次ハビトゥスと呼んでいる。(26)ハビトゥスは年輪のように行為者に刻

  • 「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があのに冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ

    「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    homiya
    homiya 2009/06/11
    前半ノーコメント。 ・・・・・・まあ一点だけ賛同できるトコがあって、「ガス抜き」論に根拠なんざ無いわけでそこはおファックしていい筈。つまり、逆もまた然りなのだけれど。