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2009年7月28日のブックマーク (3件)

  • 杉井光『さくらファミリア!』3巻 - 八月の残りの日

    神様でさえ理性には束縛される、とブラウン神父はいった。より正確には、地上においてただ教会のみが、神そのひとでさえ理性に束縛されるのだと主張しうる、と(ブラウン神父の童心)。君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね? 教会に決まってるじゃん。さて理性とはロゴスでありことばである。はじめにことばありき、のアレね。神が何者であろうと言には力と権威が宿る。でなければ「聖痕」の発動はありえない、というのはさておき。 神より金が強いとは言わない。だが、父なる神でさえ契約には束縛される。 そんなわけでこいつは正しくキリスト教的コメディである。しかも家族である。つまりホームコメディ。したがって登場人物(天使も悪魔も父なる神そのひとも)が親しみやすく欠点を備えたダメ人間揃いである、というのはまったく当然なのである。 べつのいいかたをしよう。二千年前の約束も、天と地をつなぐ契約の力も、愛も、贖いの子

    杉井光『さくらファミリア!』3巻 - 八月の残りの日
    homiya
    homiya 2009/07/28
    どっかにあると思っていたが見つけた。ラストの「契約」とか詳しく無いんで誰かがまとめてくれないかと思っていたが/キリスト教的コメディ、と
  • 冬樹忍『たま◇なま 〜キミは、何故生きている〜』 - 八月の残りの日

    最終巻。どうかお幸せに、という以外に言うべきことはないように思う。あるいは、僕は素晴らしいラノベを読んだ、と友人たちに伝えてください。 わたしはおまえに人間にしてもらった、だから感謝している、とあの鉱物娘がいう。数万年を生きる恒久を、ちっぽけな少女に。無限の叡智を、ありふれた、他者への不安に。世界征服の野望を、ただの恋に。 第一巻を読んだとき連想したのは『ベルリン・天使の詩』である。つまり色々あって「生きる」ことをやめてしまった少年と、未だ生きることを始めていない少女(という二種の天使的存在)が出会う、これはそんなボーイミーツガールだった。当然オチは、天使をやめて人間になる、ということになる。結婚式には呼んでくれ。 ところで内田樹は「邪悪なもの」について語っている。《……私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性

    冬樹忍『たま◇なま 〜キミは、何故生きている〜』 - 八月の残りの日
  • うえお久光『紫色のクオリア』 - 八月の残りの日

    とりあえずメモ。 ありえないことに、ヒジョウに真面目(と書いてハードボイルドと読む)。いや「ラブレターズ」があったか。しかし俺らのうえお久光の美質は、あのジャストボイルドな感じではなかったか。別に作風を固定すべきだとは言わないが。その意味で「×法××」のくだりはよかった。というかうえお久光の諸作のなかでとくに傑出しているわけではないよね。ぼくは『魔法カメラ』がいちばん面白いと思うけどさ。ジャンルの枠だの何だのという話なら尚更。俺らのうえお久光なら、SFというジャンルをまるで信用してない作品が書けたはずなのに、なんで「SFだ」なんて賞められるようなのを書くかな。面白いからいいけど。 一章。玩具修理者っつうより直死の魔眼かしら。そのように認識するからこそ対象をそのように処理できる。犯人との対決なんて、まんま「教えてやる。これが、モノを殺すっていうことだ」じゃん。 たまに言いたいのだが、クオリア

    うえお久光『紫色のクオリア』 - 八月の残りの日
    homiya
    homiya 2009/07/28
    そういや直死の魔眼だね。/ガクちゃんが毬井に向ける想いの源・蓄積をどこに求めるかといえば、その魔術的儀式という体裁をとった過程そのものであって、中盤の描写そのものがそれを担保している、みたいな。