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南無三江⇒■[妄念]蠕動之類 : 南無の日記 公園のベンチや駅の階段の踊り場で寝るのも、これ人生。死すれば浄土の門が開く。そういうことで、ま、酒飲んで寝ますわ。 もちろん、放言だろうし、すでに妙好人かもの南無三だのだろうけど。 親鸞は、吉本が奇妙にこだわっているように、往生というか来世に奇妙な階位を想定している。もちろん、すべて往生疑いなしとしても。 この階位をどう解釈するか、あるいは否定するかなのだが。 私は、大筋ではこう考えている。 「とても地獄は、一定、住処ぞかし」の地獄が極楽を指しているのではないか、と。 要諦は「とても」にある。 人がその必然の道を歩むとき、この世は地獄として出現する。 大衆が、その原像がその生の必然を歩むとき、つまり、まぐわって子をなして苦しんで=地獄、くたばる。この生のありかたを全的に肯定するとき、知識人のあり方はまさにその地獄の等価となる道こそが必然の思想の
二十五歳のときに人生に絶望した。もともと二十歳以降まで生きているのが奇妙な感じではあった。が、二十代というか、大人になった自分というのは、へぇという感じだった。臙脂色の緞帳が上がるがごときだった。歳相応の未熟な恋もしてそして破れそして忘れた。忘れるものだ。が、無意識のなかの私はたぶん時を忘れてないのだろう、というか、もうひとりの私はなんとなく私の死後までこの太虚のなかにミームとして残るというか、そこを胎としてまた私のような意識が生まれるのだろう。私のような自意識。凡庸というサンサラ。 絶望というのは奇妙なもので、字義にすれば望み絶たれるであろうし中国古典でも読むような大望果たせずみたいなものであろうし、人によってはそういうものかもしれないが、絶望というのはもうちょっと変なものだ。生きている意味も意識もなく身体が生きているというのだろうか。この世界と身体と意識の奇妙な、そうあれは昔の遊園地に
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