砂漠の教室 I 砂漠の教室はイスラエルはナターニャという土地にある。わたしは九月十二日に砂漠の教室に到着した。こんな不思議な教室に身をおくのははじめての体験だ。砂漠の教室へはヘブライ語を習いにやってきたのだが、ヘブライ語を習うということをめぐって、カンカン照りの空の下の教室では、いろいろな国からきた生徒たちが出会い、文字どおりぶつかり合うことすらあるのだが、そこにはすでに、それなりのリズムが生まれつつあることもたしかだ。あらゆる年齢の、さまざまな背景の生徒たちがいるが、しかしここは世界市民休暇村でもないし、ヘルスクラブでもなく、生徒たちはヘブライ語を習うということをめぐって共同生活を送っている。いうまでもなく、生徒の多数はユダヤ人だが、そうでない生徒もかなりいる。「わたしはヘブライ語を学んでいる」と生徒たちがヘブライ語でいうこの教室は、おそらくわたしにとっては、「ヘブライ語を学んでいる」と
きわめて刺激的な論考を読んだ。タイトルが主題を示している。ユダヤ人と近代美術、しかしこれはきわめてデリケートなテーマでもある。本書の中に美術史家エルンスト・ゴンブリッチの1997年の時点における発言が紹介されている。96年にロンドンで開かれた「オーストリア・ユダヤ文化祭」において「世紀末ウィーンの造形芸術におけるユダヤの影響」という講演を依頼されたゴンブリッチは、このような講演のテーマ自体が問題であることを表明するために講演を引き受け、次のように述べたという。「ユダヤ文化という概念は、昔も、今も、ヒトラーとその前身者たちと、その後継者たちによってでっちあげられたものだと私は考えています。」一組の美術を一つの国家や民族と結びつけることは文化本質主義につながる危険性を秘めている。実際にそのような例を私たちは第四章で言及される悪名高い「退廃芸術展」に認めることができる。かかるアポリアを回避するた
去る5月27日、UTCP研究員の早尾貴紀氏が今年3月に出版した著書『ユダヤとイスラエルのあいだ―――民族/国民のアポリア』をめぐるワークショップが開催された。議論は主として、UTCP研究員の勝沼聡氏、および元UTCP研究員で現在は高崎経済大学の講師をしている國分功一郎氏という二人のコメンテーターが本書に寄せた所見や疑問に対して、早尾氏が応答するという形で進行した。 (左から、國分、早尾、勝沼氏) ワークショップの冒頭、議論の導入としてまず早尾氏がこの著作を執筆するに至った経緯が、氏の学問的自伝を交えて語られた。元々は近現代ヨーロッパ思想を学問上の出発点とする早尾氏は、ユダヤ・シオニズム問題の歴史的研究や中東・イスラエルの地域研究を固有の専門領域としていたわけではない。しかしながら、このことが本書に何か瑕疵を生じさせるような結果をもたらしているわけでは決してない。むしろ、早尾氏のそのような学
2014-08-13 ジャン=リュック・ナンシー「ハイデガーとわれわれ」(2014) [以下はジャン=リュック・ナンシーによる、ハイデガー『黒ノート』に関する小論の邦訳。原文はジャン=クレ・マルタンの6/21付けブログStrass de la philosophie: Heidegger et nous / Jean-Luc Nancyに掲載。なお訳出にはドイツ語訳Nancy: Heidegger und wir - Faust Kulturも参照した。] ハイデガーとわれわれ たとえハイデガーのテクストのうちに三〇年代のヨーロッパで支配的であった反ユダヤ主義のたぐいの宣言が見当たらないとしても、五〇年代以降、彼がそうした反ユダヤ主義に加担していたことを疑わない者はいなかった。 この点にかんし、われわれは『黒ノート』から何も知ることはない。この『黒ノート』から受ける驚嘆と呪詛はむしろ、理解
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