森にえ(id:Mori-Nie)さんのブログ閉鎖に至るまでの一連の騒動を見て思うこと。 なんでこう『否定』というのは、世の中に蔓延してしまうのだろう。 ※※ 人間は、何かを暴くことに、興奮を覚える生き物だと思います。 例えば、推理小説という物語形式は、謎を暴くのが基本です。堂々と存在している不条理を、暴いてみせるのを楽しむもの。トリックが解決した瞬間、読者はまるで強固な法則が取り払われたような興奮を得ます。 言い方は悪いですが、自分は、このような『暴き』と『否定』の根底に、同じものを感じます。共通しているのはどちらも、堂々と存在しているモノを、どうにかこうにか屈させようとする、ということ。そして、きっとそれぞれを達成したときに感じる興奮も、きっと似たような系統のものに違いないのだろう、とも思います。何が言いたいかというと、何かを否定して屈服させてしまったとき、人は秘密を暴いたときと同じよう
戯言僕ははてなスターとか、web拍手とか、そういうサービスが大好きです。作り手から一方通行に何かを伝えるだけじゃなく、受け手も作り手に対して気軽にコンタクトをとれる。ニコニコ動画のコメントとかもそうですし、はてなブックマークなんかもそういう側面がありますよね。書き手が読み手のことを知る、読み手が書き手に面白かったと伝える、そういった事を実現するサービスは、書き手としても読み手としても大好きです。 でも、そういったサービス。つまりはてなスターやニコニコのコメントなどが、かえって読み手の声を殺している場合だってあると思うんですよね。 先日、大学にてクラスメイトからこんな事を言われました。「この前の、研究室にゲームを持っていく理由って記事。あれ、むっちゃよかった。感動した!」彼が言っていたのは、多分「研究室に真っ先に中毒ゲームを持っていった理由」のことです。もちろんあの褒め言葉はお世辞で、実際に
(タイトル変えました) どう見ても一人ひとblogじゃ足りない、3blogはほしい。 知的生産のツールとしてのblog(履歴書的ポジション) 精神的な悩みを打ち明けたり恋ばなをしたりするblog(チラシ裏・日記) リアル友達と繋がるためのmixiのアカ(馴れ合い)*1 一人3blogでちょうどいいんじゃないかと思うんですが、どうでしょう。これ以上増やすと人格を管理するのもエントリ書くのも大変だし、かといってこれより少ないと個々のblogの主旨がぼやけてしまうし読み手も困惑する。 追記、もとい本文 今日はブログ論です。何でこんなこと書いたかというと、この3つの要素、とりわけ知的生産のツールとしてのblogと、自分の思いをあらわにしたいという感情むき出しのblogが一緒くたになっちゃうと、共倒れを起こしかねないから分ける必要があるなと思ったからなんです。 ウェブ進化論引用です: もう一つ重要な
id:jkondoさんが悩みを包み隠さずエントリして、それにユーザがブクマしたりコメントしたりトラックバックしたり、はてなが良くも悪くも賑わっている。 ユーザがそれぞれ分析して言いたい放題各所で言っていて、大体のそれはどれも的を得ている。 で。総じて言われてるのがはてなは非モテ、オタ向きだとか、そんな感じで。要するには「ネトオタ向けのサービス」*1でまとまってる。 なので、非モテでもオタでもない*2あたしが何か書いてみよう。 そもそも何ではてなには可愛い女の子*3が少ない(=ネトオタ向けな)のか。 結論から言うと、はてな自体を見付ける機会が無いから。 なーぜか。 どうやってはてなに辿り着くか 可愛い女の子は検索するときヤフーを使います。 ブログを買いてみたい!と思ったら「ブログ」と入力します。 ヤフーでブログとサーチしてもはてなはトップ30にすら入りません*4。 ちなみに「ダイアリー」だと
自分の駄文や幼稚な考えをブログという公共の場に晒すことにどれだけの意味があるのかと疑問を抱いていた。 口は災いの元、というように訳のわからん論を撒き散らして他者の反感買うことにどれだけの意味があるのか、と。 「著名なニュースサイトに紹介されたり、人気エントリ入りしたい」というのであればそれは”他者から注目されたい”というだけであって、それが実現できたとしてもそれはブログでしかできないことではないし、一旦人気を得てしまえば目的は達成されてしまいブログは事実上終わってしまうつまらないものだ。「有益な議論がしたい」というのであれば、確かに情報分野、学術分野において時に有益であるとは思うけれども、それ以外の分野であれば門外漢の一言など結構ノイズが多いためか、ストレスもたまりやすく、不毛な言い争いに終始することも少なくない。(それは「自分のためのメモ」を書いたときであっても同様である。) じゃあ、「
ブログ論とか大嫌いなんですが*1、もう少しだけ。たとえば、この前書いた【ネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由】という記事*2は、ブクマを集めたけれど、前回の記事で言う【1.学問のルール】に厳密に則ってはいないし、そもそも「論」とすら呼べない。 本気で議論をする(論を立てる)つもりならば、人格批判を止め論理とデータに基づくだけではダメで、少なくとも次の二つの作業が書き手に要求される。 1.先行議論の調査(これまであるトピックに対してネット上でどのような議論が行われてきたのかを調べて、自分の主張が過去の誰かが議論したことと重複していないかチェックしてみて、過去の議論の流れのどこに自分の主張が位置づけられるのかを明記する作業) 2.語の厳密な定義(日常的な用語を自分がどのような意味において用いているのかを明記する作業。)*3。 前回の記事は、1も2も満たしていない。だから、飲み屋で
まあブログに書き殴るだけじゃ世の中は変わらない。それは確かだ。けれどもブログを人脈・権力・資金力でレバレッジして少しずつ世界を動かすことはできる。例えば僕に何かを聞いてくる新聞記者たちは、僕に質問する前にブログで僕の主張や僕の持つ情報を一通り押さえているから話が早い。 知的レベルの相当高い人が書く日記を見ていると、世の中がこの通りになればいいのにと思う時がよくある。 しかしその通りにはならない。情報の洪水に埋もれてしまう。既得権を持つ馬鹿に都合が悪ければ揚げ足取りなり印象操作なりあらゆる妨害を受けて知的レベルの相当高い人の主張は封殺される。情報の洪水に流されるだけじゃなく大きな錘をつけられてしまう。 言葉が世の中を変えるほどの影響力を持つのは、人脈・権力・資金力とコネクトできた時だけなのだろう。 フィルタリングの問題にコミットしてから、このブログには毎日のように衆議院・参議院やNHK等から
はてなの京都移転を2月14日に発表してから2週間が経過した。通常では考えられないほどたくさんの感想や意見を頂いている。未だに今回の移転に関したブログのエントリーなどが続いており、これには正直驚いている。それだけはてなに期待を頂いているということだと思うし、今後魅力的なサービスを送り出すことでその期待に応えていきたいと思う。 ところでネット上の反応には「下げてから上げる」というパターンが見られると思う。最初条件反射的に批判的なものを含む感情的なコメントがたくさん見受けられ、その後に肯定的なものを含む理性的な批評的意見が現れるというパターンがあるのではないか。それなりに新規性があり、且つ、論ずるに値するだけの価値があると思われる話題については、ネット上でこのパターンがよく現れると思う。 あえてはてなの話題を外して過去の例で言うと、例えばJR西日本の事故でJR職員が現場をあとにして出社したという
ネット, 心理朝に、自分の書いたエントリをブックマークして、バイトから帰ってきてネットを見たら自分のエントリに思いのほかブックマークが付いていて驚いた。ブクマコメントを見てみると、何人かの人はライフハック的な部分をクローズアップしてるようだ。確かにそういう記事に刺激を受けて書いたんだけれど、自分が力を入れたのは、自己否定する人の心の動きの部分だったので少し意外だった。そこを書くことで、たまにふっと冷静に自分を見つめなおすきっかけになれば、と思ったのだ。それこそがライフハック的なものだろう、と言われたら確かにそうなんだが…。 自分で見つけないと自分の物にならない - 試作型思索と詩作一ヶ月くらい前の上記のエントリでも書いたように、他人の理由を引っ張ってきて無理やりに飲み込ませるような改造行為が自分は好きじゃない。ただ、こうやって自分なりに考えたことを毎日、外に出し続けて、自分の理由を晒すこと
ある人から、「はてなってITリテラシ高い人が内輪で盛り上がっている感じ」といわれ、ちょっと考えてみた。 確かに、扱われている内容が技術的なものが多いし、明らかにITを生業としていると思われる人が活発にコミュニケーションをしているようにみえる。 なぜ、はてなにはITリテラシの高い人を集める魅力があるのだろうか。 最近知ったんだけど、人間の欲求は、5段階のピラミッドのようになっていて、底辺から始まって1段階目の欲求が満たされると,1段階上の欲求を志すという話。 アブラハム・マズローさん(1908年〜1970年 A.H.Maslow アメリカの心理学者)が唱えたマズローの欲求段階説とよばれるもの。 人間の欲求の段階は,生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求です。生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じよ
1500ブックマークされたときは、正直言って精神的にきつかった。 リロードするたびに増えるブックマーク数が嬉しくなかったと言えばウソになるけど、 諸手を挙げて賞賛するたくさんの人たちの純粋さが重たかった。 こんなにもくじけている人が多いのかと、少し悲しかった。 通りすがりという名で辻斬りのように罵倒されるのは、言い返すこともできず辛かった。 死ねという言葉に、本当は傷ついてた。 良い物も、嫌な物も、有無を言わさず押し寄せてきて、まるで津波のようでした。 あれはきっと、経験したことがない人にとっては想像しづらい感情かもしれません。 大量ブックマークを見越して書いた物ではないわけで、想定外の事態にひたすら受け身でいるしかない。 自分は、ものすごく短時間の間に、たくさんのことを考えさせられ、思わされ、いろんな気持ちを整理し続けるしかなかったです。 そして、うん。いくつかのことを見限ったかもしれな
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