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finalventの日記に関するiikotobakkaのブックマーク (130)

  • 本当においしい物と、普通においしい物と、お料理された物 - finalventの日記

    当においしい物と、普通においしい物と、お料理された物、と分けたら、たぶんカテゴリーエラーだろうと思う。わかってる。 私は当においしい物はそれほどべたくない。なんか哀しくなるから。というか、おまえなんか当においしい物なんてべたことないだろと言われるなら、それでもいいかなと思う。別になにか自慢したいわけの修辞でもない。当においしい物はなんかの事故みたいに会って、そして同じ物は二度とべられない。 世の中のい物は普通においしければいいと思う。どの国の庶民でもそこの普通の材で普通に料理して普通においしかったらそれでいいし、人の好みっていうのもあるのだろう。 だから、お料理というのは、普通においしければそれで終わりでいいじゃないか。でも、たぶん、そうはいかなくて、どこなくそれを介したコミュニケーションであったりする。あるいは芸術? まあ、めんどくさいもの。それをめんどくさいって言っち

    本当においしい物と、普通においしい物と、お料理された物 - finalventの日記
  • どうかな - finalventの日記

    増田⇒http://anond.hatelabo.jp/20090512213541 逆にイケメン以外は、30ぐらいからが勝負。 30以降は、カネと権力。 人柄とか、美学、おセックスみたいのも上げたいところだけど、まあ、それではもてない。それだけだと、酔狂な女もいるかもしれないなくらい。 ⇒年をとってからモテるということ、がどういうことなのかをわかっていない。 30年なり積み重ね磨いてきた内面というもので得ることができる「女」が、生まれつきイケメンの男が得ることができる「女」に劣るということ。 それはない。男の内面に酔狂にも惹かれるというのはその女の内面ということ。つまり、その「女」こそ最上というもの。

    どうかな - finalventの日記
  • ブログ観みたいなもの - finalventの日記

    ⇒[Blog]自分の愛すべき文章が消えた時、このネットの世界は荒野になる - kuroihikariの日記 私もいつかブログの世界から消えるのだろうなと思う。どう消えるのかとしばし考えることは多い。突然の死によって途切れるか、私が終了の辞を書くか。黒光さんが思っているだろうように、ブログを終わりを言い渡した「私」とはなんだろうとは思う。 私は、別段ブログを書かなくても生きているというか、私の生活者の一面はあまり書いていない。6年近く書きながら、いつのまにか「爺」ステータスな、役作りの気持ちもないではないし、「匿名」で書いてみたい気もしないではない。うまくいえないが、ブログで表現される「私」は私ではない。 まあ、基的にはなるようになるしかない。 ホノムラさんとか、yukiさんとか、noon75さんとか・・・ 面白い過去ログが消えてしまった個性派ブロガーさんたちは、自分の渾身の・愛すべき文章

    ブログ観みたいなもの - finalventの日記
  • 気持ちもわからないではないけど - finalventの日記

    増田⇒■ アプローチしても振られるだけ。 誰も好きになってくれる人はいない。 愚痴っても、自分から動け、努力しろと言われるだけ。 もう疲れた。 何のために生きてるんだろう。 死にたい。 アドバイスというわけでもないけど。 気持ちもわからんではないなということがあったのでね。 「アプローチしても振られるだけ」ということはあるよ。っていうか、そういう主観のなかに意外と客観的に及び腰っていうか、自分を捨て切れてないなんかがあったりして。 「誰も好きになってくれる人はいない」は、捨て切れなさかな。 「努力しろと言われるだけ」という、うざい関係に甘えがあったりもする。 疲れるんだけど、そしてまあなんだな。 で、他人なんかどうでもいいや、自分が思うとおりに生きてみようって、なんか吹っ切って、なんかにぶはぁっと突っ込んでいくと、なんかがふっきれて、そしてなんかが変わるよ。 ちょっと言い過ぎなんだけど、「

    気持ちもわからないではないけど - finalventの日記
  • なんとなくポエム的に - finalventの日記

    人はどのくらいの年齢で挫折するものか。 まあ、幼年期ですら挫折はあるわけだが。 挫折というよりは、可能性の手遅れというのが気になるのだが。 端的に、若さというのは、帰らない。 若作りの人はいるし、アンチエイリアシング(誤記:アンチエイジング)とかまあ、がんばれよ、そういう人々。 で、その若さとは身体。 でも、身体というのは、たとえば、子をなす、とかいうときは絶対的な境界をつくるし。 心とはいっても、実際には、身体を離れた心はない。 50歳の男が10代の少女を愛することは、まあ、できないと言ってもいいだろう。 いやそこが難しい。いや、ロリとかその手の話ではない。 いずれにせよ、可能性の手遅れというか、もうそういう人生の可能性は自分にななかったのだというのが、くっきりと見えてくるのは、50歳くらいだろう。 女性の場合は、もう上がり、だろう。 40代くらいから、ああ、こういう人生しか生きられなか

    なんとなくポエム的に - finalventの日記
  • うーん、ま、通じないと思うしなんだけど - finalventの日記

    ⇒何もしない為に生まれてきて、何もせず生きる。 - 真性引き篭もり どうにかならないか、どうにかならないかと、毎秒思う。なんとかせねばならぬ、なんとかせねばならぬと、毎日考える。思ったり考えたりするだけで、何も行動はしない。これまでそうしてきたし、これからもそうだろう。僕は何もしない為に生まれてきて、何もせずに死んで行く。 何も行動しないでも、流されちゃうっていうことはできたりする。 力を抜くと、流されちゃうっていうか。 ろくでもないところに流されてしまってひどい目にあったりするんで、そうしたらなんてとてもいえないけど。 けど、流されれば、力を抜くという感覚はなんとなくわかる。 人生があっち側からやってくるというか、人生2.0というか、他力願というか。 まあ、人生、なんにもないよ。 自分なんてラジオみたいなものだから、たまには運命放送を受信してみるのもいいかもと思うけど。 というか、力入

    うーん、ま、通じないと思うしなんだけど - finalventの日記
  • そんなもんだったりするよ - finalventの日記

    ⇒精神的に詰んだ この先生きのこれる気がしない。 これからいくら努力しようが同年代の誰にも追いつけないと思ってるし、自分程度の代替ならいくらでもいる。自分が存在を保っている必要性が薄い。自分に対して憂であり、自分に失望し、趣味も楽しめず(自分から楽しまないようにしてる)、失敗を強く責めることが多い。何かを思うたびにこれまでに沢山抱えてきた潜在的なトラウマを引き起こして頭を抱える。 そんなもんだったりするよ。 とはいえ、私などよくネガコメとかで罵倒されるけど、まあ罵倒に値するようなゴミみたいな人間だものね、俺とか思っている。 エントリ読みながら、私が思ったのは、あるシャーレ。 私は科学少年だったので、いろいろな実験をした。シャーレでカビを生やしたりとかしたことを思い出した。 カビを採集して培養するというのは、最初、げ、キモ、とか思うのだけど、そのうち、この手のキモにありがちなのだけど、奇妙

  • しょもないネタではあったけど - finalventの日記

    ネタ⇒常に意識してむなしい『ほかの人に好かれるための9か条』 - finalventの日記 まあ、あれなんですよね、好かれる努力をして努力の結果好かれるようになったとき、それをポジティブに感じられる人はいいけど、たぶん普通に、なんておれはブ男・ブスなんだろ、なんで自分なダメなんだろと、そう運命を受け止められるくらいの普通の内省力のある人なら、好かれる努力の結果を、ああ、俺ウソついているな、私そのウソがばれたら嫌われるんだろうな、と心のどこかで思う。 身だしなみとか声とか、そういう変えられる部分が変わって、人から好意をもたれるようになるのは、まず最初に、そうではない自分というのを受容してくれる他者との関係があって、いわゆる好かれる特質というのはその関係の変化に付随するものだと思う。 たぶん、だから。 嫌われるようにひねくれることはないけど、今の正直な自分の気持ちのままを広げられる関係性のなか

    しょもないネタではあったけど - finalventの日記
  • いろいろ考え方はあるだろうけど - finalventの日記

    増田君⇒http://anond.hatelabo.jp/20090115035320 多くの人の人生は22歳前後ですべて決定する。 与えられたルートを大きく逸脱しようとするとどんどん不利な条件を押し付けられることになる。 (それを突き詰めていくと派遣村に至るわけだけど) なので一刻も早く方向性を決める必要がある。 なんかまいどのウザい話を書くのも爺臭いけど。 私は、人は二十代後半に大きな転機が来ることが多いと思う。理由は、そのあたりで、性的な成熟を含めた個性化がようやく形になることだと思うから。 特に性的な成熟というのが大きいのじゃないかと思う。まさか私ってこんなに悪女、俺ってこんなに変態、みたいな部分をどう統合していくかで、いわば影の部分の統合がまずいと人間関係に軋轢を生み出すし、特にそこまで意識の側でしかも知性が高い人ほど、ここがうまくいかない。(これって多分突き詰めると親の問題だろ

  • メリークリスマス!(ダーク編) - finalventの日記

    昨日なんとなく聞いた飯島愛の死に驚いた。実際に死亡していたのは3、4日前とのことで、イブに併せてということではないのだろう。事故死かなとも思う。そうであっても、彼女が一人こっそり死んでも、数日は誰も気が付くこともなかったということではあったのだろう。 人は寂しいものだと思う。そして寂しさとは恐怖にもなる。私は孤独感が強く、今でもどうしても払拭できない孤独感はあるが、実人生ではそう寂しいものでもない。人生を薄目で見るなら、神様とかがいて恵みの多い人生だったようにも思う。が、たとえば、飯島愛さんが、では神様とかの恵みの少ない人生だったかというと、それはそうではない。 人がどう生きるかは、運命でどうにもならない部分がある。というか、けっこうある。偶然もある。ただ、自分の実存をどう了解するかについては、人は主体足りえる……といっていいだろう。まあ、そこもサルトルのようにはいかないか。 小林秀雄から

    メリークリスマス!(ダーク編) - finalventの日記
  • 人の話を聞くというか - finalventの日記

    を読まない人間 私はを何冊読むかというのはどうでもいいことじゃないか以下略なんだけど。 繰り返し読むは、その著者の内的な感覚に耳を澄ましているという感覚がある。 というか、人の話を聞いているというか。 私は若い頃、今でもそうかな、人の話を聞かないとよく叱責された。この話は書いたけど、それは大半は私がさっさと話をマクロ処理してその権力性を脱色してしまうからのようだ。人の話を聞けというのは、ようするに命令なのだから。 それはそれとして。 私は、人の話を、自分としてはよく聞いている。声とか論理とか、特に、言葉と言葉使いの感性を。 特に、言葉のなかのある内的な感性の揺らぎみたいのを聞き分けようといつも無意識の努力をしている。 文章のうまい人や頭のよい人というのはいて、そういう人は、ある程度文章をそのままマシン的にかける。わかりやすく明解というか。でも、そこの内的な感覚はおもむろに欠落してい

    人の話を聞くというか - finalventの日記
  • うーむ誤解されるかなでもちょっとだけ補足 - finalventの日記

    ⇒既婚子持ち無職増田3 役目ってなんだろう。俺って何のために生きてるのかな。と子供のためなのかな。それが役割なのかな。finalventさんには、以前も他人のために生きるべきだよみたいなコメントをいただいたのだけれど、と子供が他人だとすると、と子供のために生きるって、なんとなく自分のために生きるのと同義な気がする。どうなんだろう。 うーむ誤解されるかなでもちょっとだけ補足すると。 30過ぎて父親が急死して、それに連鎖するようにいろいろなトラブルが発生したのだけど、私がこの世に存在するという位置だけが問われるようなトラブルで、自分の内面とはまったく関係ない。もちろんトラブルに関連する自分の思いはあるけど、ちょっとひどい言い方をすると自分が内面に抱えてきた苦悩にくらべれば、それに関係ない、ただ、争って、手続きして、無駄足運んで、一日の時間を全部無駄にして、健康害して直して、くたびれて、

    うーむ誤解されるかなでもちょっとだけ補足 - finalventの日記
  • 今日も猫猫先生に啓発される - finalventの日記

    ⇒昭和30年代へ行け樋口康彦 - を償うにをもってせよ 今日も先生に啓発される……それはさておき。 以下、私の女性への偏見です。なので見逃してというわけでもなく、こういう偏見から抜けられないなという、いらだちかな。 で。 女性が男を選ぶとき、なにか、チャンネルが切り替わっている感じがする。 以前アリーmyラブで、アリーがガススタンドのお兄さんとカーセックスしちゃうシーンがあったが、それと、中里恒子の誰袖草で中国人の男と列車のなかでセックスしちゃうシーンがあったが、ああいうとき、女のなかでなにか、チャネルが変わって、合理的な判断をしているような気がする。性欲というのではなく、なんか、ある種の合理性というか。もうちょっと踏み込むと、ああ、この男は後腐れないなは計量されている。 よくモテテクなんかがネットにあるけど、この後腐れなさを身につけるみたいのが多いような気がする。で、この後腐れな

    今日も猫猫先生に啓発される - finalventの日記
  • 晴れ - finalventの日記

    また暑い日になるのだろう。夢はいろいろ見たようだが覚えていない。いろいろ心の中を見つめる。特に答えはない。混沌としている。死んだパウシュ教授のこともいろいろと思った。彼はすばらしい人間、だった、が、なにか腑に落ちない。その部分の言い得ないもどかしさを思う。 私は世界の傍観者である。人生の傍観者でもある。あまり意味のないリアルな映像のなかを生きているといった感じもする。私の目はカメラである、と。だが、不思議なことにこの世界と、私の人生は、私の目から撮影されている。「私」という存在を想定するなら、というか、めんどくさい独我論的に言えば、「私」しかいない。この世界も人生も「私」が見なければ存在しない。私の意識と世界は共時存在している、というか、そうした奇妙なしかけに私は閉じ込められているのだが、にも関わらず、私は世界の傍観者であり、人生の傍観者であるのはなぜなのだろう? パウシュ教授は子どもたち

    晴れ - finalventの日記
  • 曇り - finalventの日記

    夕方は雨らしい。台風が前線を押し上げている。台風の上陸はなさそうだが明日は関東はだいぶ影響を受けるだろう。 夢はくっきり見たという記憶があるが内容は覚えていない。昨晩は音楽を聴いているうちに眠くなり、今朝は早く起きた。坐禅でもするかなと思ったが、ヨガをした。きちんと時間を取ってヨガをしなくなりつつあり、やっていて懐かしかった。ヨガの初心者指導者のコースも取ったのにな。でも、ヨガについては今更にいろいろわかることがある。世の中がこんなにヨガブームになるとはと思いつつ、15年くらい前でも米国では一定のヨガブームはあった。私はけっこう長くYoga Journalを購読していた。 昨夕のジョギングではだいぶ身体コントロールが増すようになった。簡単な筋トレとストレッチをした。30代ころの自分のライフスタイルが蘇りつつあるし、身体もおやこの感じは懐かしいなというのもある。ただ、若さを狙うことはもう無理

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  • だよね的増田 - finalventの日記

    ⇒■ のろけではあるのだろうけど。 自慢するわけではさらさら無いけれど、学生の頃は勉強が出来るほうだった。 問題がわからない、ということが無く、努力をする事も無く、つまり壁にぶち当たることなく生きてきた。 だからこそ、彼と知り合って痛い程思い知ったのは、自分は「井の中の蛙」だったと言う事。 鈴木健二曰く、夫婦とは長い会話である。 梅田望夫曰く、一生分の会話をした。 などなど。 若いと恋愛のなかの会話は、恋愛のタメになるけど、実際の長い関係というのは、おセックス12時間ラリーというわけはなく、ふつうな延々たる会話。 はてななんかだと会話術的なものが好まれるけど。 会話というのは。 知識 感性 気配り っていうどうしようもないベタなもの。 知識はいわゆる現代思想だのみたいなあるいは学校のお勉強ではない。感性はいわゆる商業的な感性ではない。気配りはいわゆるビジネス的なものではない。 知識は、へぇ

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  • 晴れ・ログイン - finalventの日記

    今日明日はよい天気らしい。昨日は夕方ジョギング。少し身体に痛みが残る。というか疲れは遅く出てくる。季節のせいかベルギービールがあまり美味しく感じられなくなってきた。夜は英書を読書。もっとするする読めたらいいのだがと思いつつ、するする読める英文はそれなりに内容の知的レベルも低い。同じことは日でもそうか。しだいに専門的な書籍は読まなくなる。クセで医学的な論文は読むことがあるが、そのあたりが結局最後まで残るか。なんとも。 夢はよく覚えていないが、シェルスクリプトの映像が残っている。文書処理システム間のファイルをシェルスクリプトで繋いでいたり、AppleScriptとかでもといったつまらない、仕事のような夢だ。この手のプログラミングというかシステム管理とか、教壇に立っている系の夢は、あまり覚えていないが量的には多い。自分が生きなかった人生があちらで進行しているのだろうか。あまり覚えていないわりに

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  • 頭ではわかるんだけど - finalventの日記

    ⇒finalventさんが絡まれ続ける2つの理由 - 俺のターン ベタコピ。 (笑)を使わないので、何が気なのかわからない 中学生にわかるような解説をしてくれない これが解決されない限りずっとずっと絡まれ続け、ネガコメに怒り続けることになりますよ。 たぶん、それほど私に関心を持つ人は一定スレショルドを超えないと思う。というのと、ネガコメに怒るというより、まあ、いいか。 で、戻ると。 その2つをしない理由は、私のなかでは簡単で、それって上から目線の最たるものでしょという謙虚な思いがあるんですよ(笑)←とかするといいのかもだけど。 一定の知性のある人に(笑)みたいに笑いのツボを明示する必要はないし、わかる人にはそこここにしかけた爆笑のツボがわかってもらえるはずだし(ごく少数かも)、それって一種の友情だよと思っている。そこで爆笑して涙が出たらオレの友だちだよみたいな。 あと、中学生にわかるよう

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  • 朝日社説 こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに : asahi.com:朝日新聞社説 - finalventの日記

    放言ね。おまえさぁ、んなこというなら、焼き肉とかうなよな。 池のカモに矢が刺さり、学校で飼っているウサギが殺される。そんな動物たちの受難は、これまでも繰り返されてきた。いい年をした大人が残虐な行動に走るケースも目につく。 カモつゆセイロ、激ウマでしたよ。 動物にも植物にも、自分と同じように命がある。そんな当たり前のことを当たり前に受け止める感性を、今の社会が失わせつつあるのではないか。 そういう命をらって生きる己というのを見つめていくこと。人には、生物には、運命というものがあっていかんともしがたい限界というのを、当たり前に受け止めていくほうがよいと思うよ。大人はね。

    朝日社説 こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに : asahi.com:朝日新聞社説 - finalventの日記
  • 死とみじめさの増田的 - finalventの日記

    ⇒なぜ私が死にたくないか そんなみじめな顔のままこの世に別れを告げたくない。 別れる時は、悔いのない笑顔で「さよなら」って言いたいんだ。 人によるのかもしれないけど、みじめさは一生つきまとうよ。 でも、それでも、別れるとき、そして悔いを抱えて、そして運悪いと、ぎゃーとかいうけど、最後の最後は笑顔で「さよなら」って言いて死ぬことは可能だと思うよ。 俺はそれは信じてる。 静かなる細き声: 山 七平 人の生涯はさまざまであろう。外面的には、幸運な人もいようし、不運な人もいるであろう。しかし晩年になってみれば、おそらくその人の外面的な運不運に関係ないものが、一言でいえば、振り返って生涯に何の悔いもない「恵まれた生涯か否か」が、自ずとその人に表れてくるのであろう。そしてそれは、求めれば与えられるのであり、その人の幸不幸とは結局それだけであろうと思う。