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ウソかマコトか、船内で聴いたガイダンス(日本語ガイドが流れるヘッドセットを貸してくれる)によると、この村がフランスではモン=サン=ミシェル、ロカマドゥールに次いで、三番目に観光客が多い村なのだそうだ。ほんまかいや? 決してラ=ロック=ガジャックは訪れる価値のない村だとは言わないが、ロカマドゥールは当地から直線距離で東へ35Km弱なので、仮に本当だとしても、それはロカマドゥールやサルラ=ラ=カネダ(同じく北東へ8Km)の余勢を駆ってのことでないの?な気がしないでもない。それはさておき。 ここはドルドーニュ川が南北の崖に挟まれて一番狭まっている地点の1つでもあるので、水運の拠点として中世から栄えていたようだ(サルラも、この辺の水運利権によって成長し、かつ、その衰亡と運命を共にした街である)。最も、当時の村は上掲写真に示したように、もっと崖の上の方に位置していた。というのも、近代になって上流に水
昨日の話題と関係があるような、ないような話。 サルラ=ラ=カネダは去年の春にも訪れたドルドーニュの中心都市のひとつで、中世然とした街並みに観光客の人気が高い。で、ドルドーニュでの滞在日が丁度いい具合だったので、マルシェに行ってみた。 マルシェ、というのは大雑把に言えば定期開催される青空市場で、フランスを含むヨーロッパでは、どの町・村でも規模の大小こそあれ、極一般的な日用品の小売形態である。歴史的には、人が集まって、かつ、ある程度以上の治安が確保された場所を、税と引き換えに教会や領主が生産者に提供したのが起源なのだと思う。日本にも同様のことは見られるが、欧州では、それが今日まで、地方都市はもちろんパリのような大都市においても主要な小売形態として存続している点が、日本とは大きく異なる。 もちろん、フランスにも大規模資本が経営するスーパーマーケット(フランスではもちろん“スーパーマルシェ”と呼ば
一昨日に載せた写真もそうだが、なんとなくこういう構図のがしばらくボクの中でプチ流行しそうな予感がしている。と、写真の整理をしながら、伊丹スカイパークならではで、何故か今まで一度もやっていない撮り方があることに気付いたので、後日やってみよう。うまくいくかどうかわからないので今は詳しくは書かない、うまく撮れなかったときは忘れたことにする。 <JA856A DHC-8-Q402 RJOO RWY32R Taking off> <JA856A DHC-8-Q402 RJOO RWY32R Final> エコボンの離着陸をそれぞれクローズアップで。とにかく空が青かったので映えるかな、と思ったのだが、上の方の写真は逆光の処理に失敗したっぽい。以下戯言。 既に昨夜のことになるが、静岡でも地震があって、滞在している名古屋市内のホテルもいささか揺れた。で、揺れながら考えていたのが、ボクのようなのーてんきな世
エンブラエルをいろいろと撮ってみたが、どうもしっくりと来ない。半分は、しばらく冬篭りしていたせいで勘が鈍っているというのもあると思うのだが、以下余談。 いろんなことが自粛ムードになってしまうのはさもありなん、とも思うし、ある意味において各人の自然な心情の発露なのだ、とも思うのだが、だからこそ、直接に被災していない人、たちまちに被災地に対して何もすることがない人、は、強いて、と言うか、そういう自然な心情に鞭打ってでも普通に暮らした方がいい、と思う。 具体的に言うと、遊びにいくのを控えるとか、外食はしないとか、そういうのは、あまり意味がないというか、もちろん、それで浮いたお金を義援金に当てるというのは悪くないと思うし、それを実行して違和感のない人はおおいにやるべきだと思うのだが、単に自分自身の消費を抑制するだけ、というのは、前述の自然な心情を満足させることにはなるが、有り体に言えばそれだけの話
宗教とは何か(テリー=イーグルトン著/大橋洋一+小林久美子訳,2010年青土社)と、神は妄想である(リチャード=ドーキンス著/垂水雄二訳,2007年早川書房)を併読して物思いに耽る今日この頃。いろいろと益体もないことが頭に浮かんでは消えていくので、数回に分けて備忘しておくことにする。 順序から言えば、先に何となく前者を手にとって読み始めたところ、名指して後者を批判していて、かつ、これがなかなかに面白かったので、存在だけ知っていつつもちゃんと読んだことがなかった後者も併せて読むことにした、という流れ。 前者の本論2ページ目にして、 リチャード・ドーキンスとかクリストファー=ヒッチンス(引用註:本書でドーキンスと並んで批判される未邦訳書『神は偉大ならず』の著者)-以後、面倒なのでこのふたりを単一の記号でくくって「ディチキンス」と呼ぶことにする(p.15) という、掴みのギャグとしか思えない下り
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