隠すということの中にこそ、感動がある、ということ。 [由来] 一四~一五世紀、室町時代の能の役者・作者、世ぜ阿あ弥みの「風姿花伝」に出て来ることばから。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず(秘密にすれば花となり、秘密にしないと花にはならない)」のしばらくあとに、観客に思いも寄らぬ感動を与えることこそが「花」である、と述べています。
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「フランケンシュタイン」 遺伝子操作、iPS細胞による再生医療、クローン羊の誕生……生命科学の進歩はとどまるところを知りません。人類は生命の設計図すら操作できる能力をもちましたが、その倫理性や危険性を指摘する識者も大勢います。そんな現代の状況を予見するような小説が今から二百年も前に書かれていました。メアリ・シェリー作「フランケンシュタイン」。2月放送の「100分de名著」は、科学の功罪、人間存在の意味を鋭く問うこの作品を取り上げます。 天才的な科学者ヴィクター・フランケンシュタインは科学の粋を集め人造人間の製造に成功します。しかし誕生したのは見るにたえない醜い怪物でした。ヴィクターはそのおぞましさに耐えられず逃げ出します。一人うち捨てられた怪物は、はじめは善良な存在でしたが、いわれない迫害を受け人類への復讐を決意。ヴィクターを取り巻く人々の殺戮を開始します。 この作品は、本来人間を幸福にす
『万葉集』と聞けば、遠い存在に感じてしまう。古典の授業や日本史の教科書に登場した、なんだか難しそうな歌集。それが万葉集の世間一般のイメージなのではないだろうか。しかしそんな印象を一変させる本がある。高松で出版社を立ち上げた著者による、『万葉集』を現代語に訳した本書である。 たとえば「白栲(しろたへ)の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(巻12・3182番)」の和歌を本書はこう訳す。「あんたに別れ話をされたとき『ほな別れたるわ!!』って即レスしたけど正直やってもうた!て思てる」……たしかに「白栲の袖」「思ひ乱れて」などの古語では伝わりづらい感情も、「即レス」「やってもうた」などの現代語を使われると、なるほどそういうことか、と微笑(ほほえ)ましく感じられる。万葉集の歌が、これまでになく身近に迫ってくる。そして「和歌って、現代のSNSやLINEの文面みたいなものなんだな」と気づかされる。
政府と市民の関係はどうあるべきか ジョン・ロック(1632~1704年)は、政府と市民の関係はどうあるべきかを考えた人です。現在の自由主義、民主主義の根本の理論をつくった人だと位置づけされています。彼は、「政府をつくるのは市民の権利を守るためなのだから、市民にとって望ましくないことをする政府は、市民が交代させることができる」としました。 当時のヨーロッパには「王の支配権は、神から授かったものだから絶対であり、市民は王に逆らうことはできない」という王権神授説が存在していたのです。 キリスト教の神とアダムの関係と同じように、父親は子どもを支配し、子どもは父親に従うものとされていましたから、王と市民の関係もそれと同じだと。この考え方にもとづけば、市民にとって王は絶対的な存在で、どんな命令をされても従うより仕方がないということになります。 ところがロックは、王が市民に利益をもたらす方向に傾いている
平田オリザが読む 太宰治が自死したのは一九四八年の六月。同年、同い年の大岡昇平が『俘虜記』を発表する。 四六、七年にデビューをした野間宏、埴谷雄高らを第一次戦後派、四八、九年に登場した大岡、三島由紀夫、安部公房、島尾敏雄らを第二次戦後派と呼ぶ。彼らに共通しているのは、三島を除いては従軍体験か、日本統治下の占領地でそれに近い何らかの悲痛な経験をしている点にある。大岡の『俘虜記』はその代表で、作者本人がフィリピンのミンドロ島で捕虜となり一年弱を収容所で過ごした経験が克明に描かれていく。 この連載で見てきたように、田山花袋を祖として、日本近代文学は「私小説」という特異なジャンルを発展させてきた。私小説は自らの体験を小説に綴(つづ)ったもので「心境小説」とも呼ばれた。志賀直哉は、おそらくその頂点にあった。 だが日本の私小説は、対象が作家の行動に限定されるため社会性に欠ける難があった。いや、西洋文学
平田オリザが読む 先回の太宰治の項で、かつての文学少年・少女たちは必ず太宰治にはまったものだと書いた。そしてまた一定数の若者たちは、「太宰なんて偽物だ。俺はアンゴだ」と嘯(うそぶ)いたものだった。かく言う私も、そのような文学少年の一人だった。 「半年のうちに世相は変(かわ)った」「若者達(たち)は花と散ったが、同じ彼等(ら)が生き残って闇屋となる」「けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」 本作の発表は一九四六年四月。敗戦後、それまでのモラルが崩壊していくことに呆然(ぼうぜん)とする日本人たちに「戦争に負けたから堕(お)ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから
みえっぱりな京都人bot @kyoutojin_bot 京都で観光案内している時にされた質問 観光客「祇園精舎ってここから何分くらいかかりますか?」 私「多分半日以上かかります」 観「えっ?祇園精舎って、この辺にないんですか」 私「インドですね」 観「えっ?平家物語の祇園精舎ですよ?」 私「インドですね」 2022-01-27 23:39:49 みえっぱりな京都人bot @kyoutojin_bot おもしろブログ(自称)書いてるんで、良かったら目を通してください 広告は一切つけてないのでサクサク読めます p.s.ちゃんと祇園への案内はしましたよ kyoutojin.com 2022-01-28 11:03:13
今回のお話は!【はい!望月りんです!今回は「孫子の兵法」を解説していきます。孫子の兵法か、なんか聞いたことあるなこの本の内容は今から2500年前に小さな国同士が覇権を争って戦いをしていたときに生まれた軍事マニュアルだ。...】【要約】眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法【島崎晋】参考文献:眠れなくなるほど面白...
琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。 圧倒的語り口による古川日出男訳を底本に、精鋭クリエイターによって初のTVアニメ化。 《監督》山田尚子×《脚本》吉田玲子×《キャラクター原案》高野文子×《音楽》牛尾憲輔! 一大叙事詩のマスターピースを、少女の目を通じて叙情的に描き出す。 【公式サイト】HEIKE-anime.asmik-ace.co.jp 【公式Twitter】https://twitter.com/heike_anime 【イントロダクション】 《祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす》 平安末期。平家一門は、権力・武力・財力あらゆる面で栄華を極めようとしていた。 亡者が見える目を持つ男・平重盛は、未来(さき)が見える目を持つ琵琶法師の少女・びわに出会い、 「お前たちはじき滅びる」と予言される
文:篠原諄也 写真:斉藤順子 北村紗衣(きたむら・さえ)武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授 1983年、北海道士別市生まれ。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史。東京大学の表象文化論にて学士号・修士号を取得後、2013年にキングズ・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』 (白水社、2018)、訳書にキャトリン・モラン『女になる方法──ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』(青土社、2018)など。 傑作とされる古典がつまらなかった ――フェミニスト批評とは何でしょう? フェミニスト批評はこれまでの批評が実は男子文化だったことに立脚しています。つまり、批評の歴史を振り返ると、男性中心的な社会の中で、男性向けに作られたものを男性の視点で読む。それが普遍的な解釈だとされてきました。 日本の近代文学もそうで、たとえ
大澤真幸が読む デカルトは、近代的精神への扉を開いた哲学者だ。1637年に出版された本書は、本来は、「屈折光学」「気象学」「幾何学」という三つの科学論文集の前に付けられた序説である。少し前に、ガリレオがローマ教皇庁から断罪された。デカルトは慎重になり、『世界論』という本の出版計画を変更し、できあがったのがこの科学論文集である。その後の科学の蓄積があっても、「序説」だけは古びることなく、今でも読まれている。 『方法序説』は、細かく六部に分かれているが、後世への影響という点で最も重要なのは第四部だ。ここに、あの有名な命題が出てくる。 実生活では、不確かな意見にも従う必要があるが、真理の探究にあっては逆でなくてはならない、とデカルトは述べる。わずかでも疑いうるものはすべて誤りとして廃棄すべきだ、と。そうやって廃棄していくと確実なものとして残るのは、まさに私が疑い、考えているということ、それだけで
平田オリザが読む 十九世紀末に産声を上げた日本の近代文学は、一九○○年代にほぼ完成を見て、大正期には爛熟(らんじゅく)の時を迎えた。一方、日本国は第一次世界大戦で漁夫の利を得て一等国の仲間入りをしたが、分断が進み社会の不安は増大するばかりだった。度重なる戦争は国民に大きな負担を課したが、しかしその恩恵は一部の者にしか行き渡らない。 大正デモクラシーが幾多の分裂の後に共産主義運動、地下活動へと変容していくように、白樺派に代表される大正文学の人道主義もプロレタリア文学へと形を変えていった。小林多喜二の「蟹工船(かにこうせん)」は、その代表的な作品だ。 本作では、北洋の蟹漁の船内の過酷な労働と、その労働者たちが団結に目覚める過程が、生き生きとした描写で描かれる。東北の農家の次男、三男を中心に北日本の食い詰め者たちが、目先の賃金に吸い寄せられるように集められ、北の海の地獄へと送り出される。命の値段
桜庭一樹が読む わたしたちの人生は何でできてるんだろう? 勇気を出して一歩踏み出し、新しい扉を開いた経験? でも、実はそれと同じぐらい、怖気(おじけ)付いて実行できなかったことからもできてるんじゃないだろうか。後々振り返れば、きっとみんなそう……。 今作の主人公は、ロシアの田舎町でひっそり暮らす没落貴族の三姉妹。いつか故郷モスクワでの華やかな暮らしを取り戻そうと願っているが、何か大きな力が都会に連れ去ってくれることもなく、己の力で町を飛び出すこともできず。静かな絶望の前で立ち竦(すく)むばかり……。 著者は農奴解放前年の一八六〇年生まれ。父方の祖父は農奴だった。医学生の傍ら、家族の生活費のために新聞にユーモア小説を発表していたが、文壇の重鎮から激励の手紙をもらい、一念発起。本格的に文筆家を目指す。三十歳の時、流刑地サハリンに渡り、悲惨な実態のルポを書き、高く評価される。以降、閉ざされた空間
坂之上田村フレンズ @pokitasu 山月記の李徴子、現代日本だったら東大卒エリート官僚コースを蹴って作家業に転向するも、鳴かず飛ばずで鬱憤晴らしにTwitterアカウントで虎のように暴れてたら昔のリア友にアカウント特定されて、一瞬正気に戻ったけどもう堅気には戻れないとかそういう話になりそう(闇のインターネット 2021-06-24 09:57:40 リンク Wikipedia 山月記 『山月記』(さんげつき)は、中島敦の短編小説。1942年(昭和17年)に発表された中島のデビュー作である。唐代、詩人となる望みに敗れて虎になってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を友人の袁傪に語るという変身譚であり、清朝の説話集『唐人説薈』中の「人虎伝」(李景亮の作とされる)が素材になっている。『山月記』の題名は、虎に変わった李徴が吟じる詩の一節「此夕渓山対明月」から取られている。 初出時は、他1篇「文
リモート読書会は夏目漱石『吾輩は猫である』だった。 吾輩は猫である 作者:夏目 漱石 Amazon この超有名な小説、ぼくは読んだことがなかった。 つーか、中学生、高校生時代に何度か読もうとして途中で挫折している。 「面白くなかった」からである。 11章あるけども、1章を終わらないうちにダメになってしまっていた。 ぼくは「自分では読みそうにない・読み終えそうにない、有名な小説」を読みたいというのがこの読書会への参加動機だったので、このセレクトは願ってもないことだった。『ペスト』などもそうである。 そして読み終えた。 なるほど、こういう小説であったか! ぼくは、とにかく「朗読すべき文章」としての心地よさに強い印象を受けた。 例えば、次のような文章(猫のセリフ)は、リズムとしても気持ちがいいし、文章の内容としても「愚行権」の称揚になっていて小気味いい。 何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うの
(光文社古典新訳文庫・1166円) よみがえったロシアの原石 最近めざましいロシア文学の「古典新訳」の機運の中で、一人言わば取り残されたようになっていた文学者がいる。レールモントフだ。彼は十九世紀初頭に、プーシキンを継いで現れた反逆精神たくましいロマン派的な気質の詩人だが、小説家としても『現代の英雄』一作でロシア近代小説の決定的な出発点を築いた。評者自身今回の清新な訳で久しぶりに再読して痛感したのだが、小振りな小説ながら、精緻な文体によって語られる物語は魅力的で、図体(ずうたい)が大きいだけに冗長になるきらいもあるドストエフスキーやトルストイの怪物的長編に比べても、文学的な価値において引けをとらない。 『現代の英雄』には、本書の主人公ペチョーリン自身が書いた手記から「タマーニ」「公爵令嬢メリー」「運命論者」の三編の他に、語り手の「私」と、ペチョーリンのかつての同僚による語りが交錯し、全五編
(角川文庫・792円) 種本と2種の版本が示す時代や才能 シェイクスピアの研究者、翻訳者であり、演出家でもある河合祥一郎の「リア王」の新訳である。演出の現場からの視点で、柔軟に開かれた翻訳が斬新である。現に著者は、この翻訳を使って音声ドラマとしてネット配信し、劇場でもリーディング公演を行った。 しかしこの本のもっとも面白いところは、巻末に付けられたシェイクスピアの種本「レア王年代記」とシェイクスピアの二種類の版本の比較研究である。 「レア王年代記」は一五九〇年頃に初演され、九四年には女王一座によって上演されている。シェイクスピアはこれをもとに「リア王」を書いた。それには二種類の版本があり、一つはいわゆるクォート版と呼ばれるもので一六〇五年に書かれ翌年上演されている。
(新潮文庫 上巻1100円、下巻1045円) (※河出文庫、光文社古典、新訳文庫などからも刊行) 人生を決めたのは、大学入学後、寮で過ごした一年間だった。寮生たちは授業に出ない、風呂に入らない、平気で規則を破る、試験前は徹夜で麻雀(マージャン)する、平然と留年する。こんな魅力的な生活態度に染まらない人はいないだろう。これで、疑いもしなかった価値観が完全に崩れた。 だが、価値観を根こそぎ破壊したのは読書だ。手当たり次第に読み漁(あさ)っていたとき、出会ったのが本書だ。衝撃だった。恋愛小説だと思って読んでいたら、異様な人物の常識を絶した行動の連続だ。ドストエフスキーが見ていた人間の底知れなさがものすごい迫力で伝わってきた。
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