越智治雄という、日本近代文学専門の東大教授がいた。駒場のほうである。当時、本郷には三好行雄がいて、二人で東大の近代文学を担うかたちだった。吉田精一が短期間いたほかは、当時東大には日本近代文学の教員はこの二人だけだったが、東大嫌いの谷沢永一はこの二人に猛攻撃を仕掛けた。三好のほうは文章での論争になったが、越智のほうは、口頭でやったらしく、どうも資料がない。 越智は、それから弱って、1983年、53歳で死んでしまった、というのだが、調べてみたら、もともと病弱で、薬をたくさん抱えていたという。顔はハンサムで、黒澤明に俳優になるよう勧められたというのだが、そう病弱では俳優は務まるまい。その病弱が、1976年から特にひどくなったようで、七年間病み続けて死んだらしい。 東大の「教養学部報」を見たら、田尻芳樹氏が河合祥一郎さんの訳したグリーンブラットの本の書評を書いていた。大昔は、文学研究といえば、作家