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2016年10月4日のブックマーク (5件)

  • 宇多田ヒカルを分かるか。|オオツカヒサオ|note

    宇多田ヒカルが復帰した。「人間活動宣言」後、結婚と出産を経て少しだけ「ぼくたち」から距離を取ったように見えた彼女だったが、復帰作を聴くと彼女が以前よりもとても近くで語ってくれているような気がしてファンとしては嬉しい。 90年代にはその鮮烈なデビューで小室哲哉を終わらせ(小室哲哉人がそう公言している)、00年代にはその有り余る才能をまき散らしながら走り抜けて誰と比べられることもないレベルにまで大成した。そして前のめりに倒れ込むように「人間活動宣言」という彼女らしい物言いでの活動休止に入った。20年前「ぼくたち」の前に突然現れた彼女は、消えるときも突然だった。だから大げさでなく日中がその復帰を待ち望んでいた。 宇多田ヒカルを見聞きしていて思うのは「才能というのは誰にでも理解できるものなのだ」ということだ。音楽に詳しくないからとか、逆に詳しいからとか、若いからとか、同世代じゃないからとかは関

    宇多田ヒカルを分かるか。|オオツカヒサオ|note
  • TKが宇多田ヒカルに引導渡されたとコメントしていますが、両者は何がどう違って、TKはそのように思ったのでしょうか。 | ask.fmhttps://ask.fm/polytope

    About polytope: Nothing here yet polytope photo gallery: Nothing to show here at this time 感覚的には速攻で分かるのですが、言葉にしようとすると難しいですね。長くなるので時間があるときに読んでください。ワタシの回答としては、オリコンチャートにも通用するR&Bのグルーヴを90年代のTKは作れず、宇多田ヒカルは作れたということでしょう。trf「Overnight Sensation」と宇多田「Automatic」を聞き比べればわかると思いますが、TKはどこまで行ってもタイミングがほぼジャストなんです。でもR&Bのグルーヴというのはゆらぎ・ずらし・間が必要です。頑張ったのは安室奈美恵「Don't wanna cry」ですが、やはり甘すぎる。 TKはロックや4つ打ちのグルーヴを作ることはできました。ただTKは

    TKが宇多田ヒカルに引導渡されたとコメントしていますが、両者は何がどう違って、TKはそのように思ったのでしょうか。 | ask.fmhttps://ask.fm/polytope
  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:PRE・face

    この巻頭言を依頼されたとき、少々当惑しました。私は大会主催校に所属する会員ですので、大会当日は半ばスタッフとして駆け回っていて、各会場を満遍なく回って発表を聴講することができませんでした。従って、大会全体を総括できるような立場にはありませんし、全体についてコメントをするには、けっこうな「復習」が必要だなと思っていました。 しかし、いざ書く段になって、自分が聴講できなかったものも含め、すべてのシンポジウムとパネルの報告に一通り目を通しているうちに、あることに気が付きました。それは、こうしたパラレルセッションの形式をもつ学会では、すべての発表を聞いて「全体を総括」できる者など誰一人として存在しない、という当たり前のことです。それに気付いて、少し楽になりました。そしてそこからさらに別のことに思い至りました。 私はこれまで、どちらかといえば、パラレルセッションの学会には批判的で、自分で企画するとき

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:新刊紹介:『共感覚から見えるもの アートと科学を彩る五感の世界』

    北村紗衣(編著) 『共感覚から見えるもの アートと科学を彩る五感の世界』 勉誠出版、2016年5月 「共感覚」とは、ひとつの刺激から二つ以上の感覚が発生する現象である。例としては、音を聴くと色が見える、文字を見ると色を感じるなどといったものがあげられる。こうした感覚を日常的に経験している者も存在し、共感覚者と呼ばれている。共感覚はオカルトや超能力といったものと結びつけられやすく、体系的な学術研究の対象となることは少なかったが、近年、医学や脳科学などの分野で注目されはじめている。 書は主に人文学や芸術といった視点から共感覚に取り組んだ16編の論考をおさめている。哲学や芸術の分野においては長きにわたり共感覚的なものへの関心が払われてきたが、一方で学術研究は散発的にしか行われておらず、各分野の研究がうまく接続されてきたとは言えない。書はこうした状況を改善すべく、様々な人文学における共感覚研究

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:新刊紹介:『介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)』

    とてつもない観察眼だ。見ること、聞くこと、語りかけることが複雑に交叉する場所で、介護職員と認知症高齢者の、双方の「からだ」が互いをさぐりあい、形をつくる。さぐりあいはコンマ秒単位、目にも止まらぬほど高速で、しばしば当事者たちにも意識されない。著者はビデオ録画とフィールドノートをもとに、そこに即興のダンスのような、複数の行為の「ずれ」と解消の時間的構造を見出し、ほどいていく。そのまなざしと、ことば。 書のことばの特徴は、逐一記述すれば長大になってしまう複雑でミクロな相互行為の「勘所」をわかりやすく教えてくれることだ。その記述には、つい真似をしてからだを動かしたくなるリズムがある。読みながら私も、二枚の尿とりパッドを重ねて、ずらして、いや穴をあけて…と、記述されたジェスチャーをやってみてしまう。わかりにくい動作については、いざわ直子氏によるリラックスしたイラストレーションが照らしてくれる。