文化人類学者、たぶん 近刊『ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015)
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「大好きな場所で、大好きな人と、楽しい時間を過ごしたい」 そう語る友人、松島宏佑・さおり夫妻のウェディングに参加したのは昨年の夏のこと。 舞台は、森。そう、読んで字のごとく、森。 電気も水道もない、山梨の田舎、笛吹市(ふえふきし)にある「おらんとうの森」。手入れも何もされていない野ざらしの山林だったこの森を、たった一人で借り受け整えてきた大工の”棟梁”との運命的な出会いから生まれたのが、二人が仲間たちと手作りで企画した、「森のウェディング」だ。 最近は、アウトドアウェディングやDIYウェディングと呼ばれるカジュアルな形のウェディングを行うカップルもじわじわと増えてきている。自分の大切な人たちと、肩肘張らずに自分たちらしい時間を一緒に過ごしたい、という指向の現れだろう。そうしたアウトドア/DIY系のウェディングをプロデュースする専門の企業も出てきている。 ただ、二人の場合は業者抜きで、個人の
「君はちゃんと吃ることができるからいい」 そう言われたのはもう5年以上前のこと。 当時は「はぁ…」と頷くしか返事ができなかったが、今でも折に触れて思い出す。 この言葉を僕に言ったのは、西きょうじさん。軽井沢に住んで、東京に通って予備校講師をしている、ちょっと変わった人だ。実際に授業を受けたことはないけれど、ひょんなことから紹介してもらい、以来ちょくちょくお酒を飲む仲になった。 西さんに言われたことは、「実感の伴わない知識まで、さも自分の考えかのように流暢に喋るよりは、下手くそでゆっくりでも、自分の実感から言葉を絞り出そうとできることの方がよっぽどいい」と、そういうニュアンスだったと思う。 だけど当時の僕は、むしろ「そのようにしか話せない」状態の自分にひどく悩んでいた。 流暢に、明瞭に話せる人になりたかった。 臆することなく滑らかに早々と対人コミュニケーションを成立させられる人が羨ましかった
今週は急に具体の話。 僕はいる分しか稼がないできた。 それはたいてい数万円で、 それを聞くとみんなびっくりするが、それでもう10年くらいやってきた。 7年ほど前に緑のふるさと協力隊という制度に参加させていただいた。 ふるさと協力隊は、地球緑化センターというNPOが運営している、まちの若者をむらに派遣するプログラムだ。 国や大きな機関が中に入っていないので、とにかく人の体温が感じられる経営をしていて、 つまりはびんぼうくさくて、だからか中の人は想いがあってみんな真面目で、それがすごく好きだった。 緑のふるさと協力隊で福井県池田町に派遣されていたとき、生活費として支給されたのは5万円で、 それまで人間はいくら稼ぐべきか考えていたので、すごく参考になった。 むらでは、支給金額以外のお金を絶対に受け取ってはいけない。 せいいっぱい汗をかくと、農家さんからは現物支給で食べ物をいただいた。 頑張れば頑
わたしが作ったたべものに対する、「おいしい」という反応。 「(味覚として)おいしい」 「(社交辞令として)おいしい」 「(まずい。でも)おいしい(といったほうが丸く収まる)」 「(この味は趣味じゃないけどまあ食えるから)おいしい」 味が良いことを伝えたいのか、味ではなく作った人を思いやっていることを伝えるための意味合いが強いのか。 その人が食べる速度やおかわりの有無などの、ことば以外の情報から、わたしはつい「おいしい」の真意をさぐってしまう。 わたし自身が「おいしい」ということばを他人に強要してしまうかもしれないことにも怯える。 いつからか、わたしは「おいしい」場がこわくなった。煩わしくなった。 逆に「まずい」は、主に味を批評していることは明らかで、「社交辞令」を捨象した潔さがある。 「まずい」と言ってくれたなら、わたしはまっすぐその人の目を見て、その食べ物についての話が
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