文字の方がひとりでに話し出す。だから、それを代弁してやるナレーター=歴史家の必要はないという。本当にそんなことがありえるのだろうか。然り、それがミシェル・フーコーの言表(エノンセ)である01。じつは、言表は、デリダの言う痕跡traceとほとんど変わらない概念である。少なくとも、この概念を出現させる手続きは、ほとんど同じである。すなわち、ここで働いているのは、デリダならエスパスマンとでも言うところの、一種の間隔化である。だが、痕跡が、なにかしら極端で身体的なものに依存しており、この身体の絶対的距離が、ある種の神学へと逆接続する回路となっているのに比較すれば――いや、こうした拙速な理解をデリダの責任にするべきではないのかもしれないが――、言表は、それらとは無縁である。そしてそのことによって、古文書学者であるフーコーは、むしろ声について語ったのだとさえいいうる。 それにしても、フーコーは、どう